再生への旅

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zoom RSS 不安との付き合い方

<<   作成日時 : 2012/01/13 03:49   >>

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吹雪く日を鈴振るばかり僧なれば 玉宗

「不安」との付き合い方といった内容の番組がNHK総合で報映されていた。臨済宗のお坊さんらしい方の坐禅も紹介されていた。意外というか私の認識不足なのだが、彼の宗派の坐禅にも「思い」を越えるという黙照禅の工夫があるらしい。メタンガスのように湧いては消え、消えては現れる「思い」。その来し方行く末に縛られず、川の流れのように遣り過ごす坐禅中の息使い。命のままのあり潰れた様子。

目に見えない「わが思い」に、良くも悪しくも、いやがうえにも、或いは好き好んで、已むに已まれず、引き摺られ、引き摺り生きている私の、抓れば痛い五体がある。生きるとはそのような「業」を重ねることでもある。そのような輪廻転生を繰り返しているのが人生の宿命であろうか。

そのような娑婆にあって、仏法の真意、意義といったものが那辺にあるのか。そのような問いかけは現代にあっても無駄ではないと思うのだが。それは宗派やセクト根性以前の根本に関わっている。命あるものは死す。諸行無常。眼前のそのような人力を越えた命の実相から全てが始まっているのであろうし、そこに立ち返らなければならない。そのような一期一会の命をどう生きるのかといったテーマを人生は専権事項としている。お坊さんという生き方もその一つの選択肢であり、その規則の法を仏法に依拠しているということだ。

人の数ほど人生があるということは、人の数ほど煩悩があり、解脱があり、救いの窓口、道があるということでもあろう。私の選んだ方法を共に歩まないかと誘う事は犯罪ではないが、こうでなければならないといった強要や強制は既にその時点で仏法を逸脱しているし、宗教という名の競争地獄であろう。同じように、無宗教を自認し、他に扇動するのも大いに見当違いの逸脱・越権行為であると思う。

人のこころは計り難い。それは自己のこころを顧みれば容易に腑に落ちることである。様々な不安を抱えて生きているのが人間の相場である。不安を生きる力に変換する、反作用させる工夫があるのだろう。自己の不安だけではなく、自己の喜怒哀楽、自己の生老病死、自己の修行菩提涅槃を川の流れのように見遣る工夫が、国境や人種や宗派を超えての「行」の本義であり、恩恵ではなかろうか。

そしてそれは人間の寛容さ、包容力を育てるものと信じたい。自己の中に巣食う人間らしさを越えたものに手を合わせることが出きて、初めて人にも寛容になれるのではないか。不安は不安を越える為に立ち現われる。そのような不安との付き合い方があってもいいだろう。







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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
交番の角で弛める頬被   よし

何もやましいことはないのだけれど
制服に会うとどうにも緊張するのだ
yoshiyoshi
2012/01/13 03:59
この番組、私も見ていました。「僧なんです」という紹介が面白かったですね。玉宗さんも、あまり乱れずにバンジージャンプを飛ぶのではないかと思いました。私も飛べそうな気がしました。やってみなければわかりませんが。
志村建世
2012/01/13 23:25
yoshiyoshi樣。
制服にも色々ありますが、私はお坊さんの制服に多少やましさを感じます。(笑)

志村建世樣。
いやいや、高所恐怖症とまではいかなくとも、バンジーなどあり得ないことです。
死の宣告に近いです。
大いに慌てふためき、うろたえる事うけあいです。
修行がたりないと云われても構いません。
(^^;
合掌
市堀
2012/01/14 11:18

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