再生への旅

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zoom RSS 受け継いだもの、受け継ぐべきもの

<<   作成日時 : 2012/02/10 05:25   >>

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春ひとり高舞ふ鳶の驕りかな 玉宗

毎年決まって冬になると手足の罅・皸に悩まされるのだが今年は比較的症状も軽く済んだ。
若い頃はそうでもなかったのだが、加齢と共に「行」をする上でも手入れをせざるを得なくなっている。夫人からはいつも尿素入りクリームを宛がわれるのだが、使い方が悪いのかそれでも必ず指や踵が割れてしまい、知らぬ間に血を噴き出して歩いていたこともあった。そんなときはテープを巻かざるを得ない。クリームと絆創膏は寒行托鉢の必需品である。

そういえば、亡くなった実母も指にテープを捲いていたし、夜になると手にクリームを塗っていた。あれは何であったのか思い出せない。いずれにしても高価な化粧品というような代物ではなかった。漁師の妻として水に触れぬ日とてなかっただろうし、ましてや北海道の寒さである。畑仕事も欠かすことがなかった母。余りきれいな手をしていたとはお世辞にも言えなかった。
実父もまた肌の弱い方だったらしく、汗疹に悩まされていたのを忘れない。然し、母のように罅や皸ができるタイプではなかったようだ。私の五体は間違いなくその母や父の体質的血肉を受け継いでいる。

父や母の顔・声・匂い・オーラ。それらも近頃は記憶の向うへ薄れていこうとしている。記憶は薄れて行くのであるが、出家する前も、お坊さんをしている現在も、この、らしからぬ無骨なわが手を見るたびに父や母のことを思い出さずにはいられない。
そして私の顔や手という目に見えるものとともに、私のこの気質もまた母や父より譲り受けたものには違いない。恐らく私と夫人の血を継いだ子達にもそれ相応のものが受け継がれてゆくのであろう。天の采配・血の采配を如何とも為し得ないところがある。誤魔化しがきかぬところでもあろう。

一方、出家したお坊さんの世界での親が私にはいる。得度の師匠、そして嗣法の本師。血肉ではなく仏法の縁で繋がっている。仏道に於いては本来、血肉の相続より法の相続が尊重されてきた。お釈迦様は共に出家されたわが子である羅睺羅樣に、悟りを開いていないということで嗣法されなかった。仏法では血肉の情を容赦しないという実があり、このような故実には枚挙に暇ない。現代では血肉の相続と共に、と言った方が実際であろうか。いずれにしても、引き継ぐべきもの、つまり人生の一大事、宝が何であるのかというところに帰着する。

生き方として仏法、当たり前な事であるがそれはお坊さんとしての日常生活に如実に反映される。師匠から陰に陽に学んだ生き方が今の私の生の姿に現れている。知らず知らずのうちに先師の歩んだ道を曲がりなりにも歩もうとしている自分に気付く。仏道は理屈で留まるものではない。実父母の血肉を受け継いだこの五体で仏法を師匠から引き継ぎ、次代へ引き渡そうとしている私がいる。煩悩まみれのこの五体で以って、仏道という生き方に人生を賭けている私がいる。仏道が脚下に照顧される所以も、無一物なる自己を尊ぶべき理由もそこにある。

仏法と血肉。ともに時と処を換えても呼び合うものがあると信じている。








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上げ潮や口で泳げる細魚(さより)かな  よし
yoshiyoshi
2012/02/10 05:55
七生を 護りし如意輪 聖徳の
やなぎ芽 待たん 御堂傍ら
貧女の一灯
2012/02/10 15:36

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