再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 修証一如・人生を遊化するということ

<<   作成日時 : 2012/02/22 04:31   >>

トラックバック 0 / コメント 4

画像


僧が来て覗き込んだる雪間かな 玉宗


道元禅師は「この生死は、すなわち仏の御いのちなり」と示されて、この生き死にする人生が、そのまま仏の御いのちの様子である。だから、死を厭い生を願う執着心は、刻々に生き死にする無常の体そのものが仏性であるところの実相から懸け離れるものであるとされる。
「信を以って生きる」とは、人生を厭うことでもなく、また願い求めることもなく、本来的に何の不足もない今の命を「生き切る」ことであり、その事実こそが仏の心、仏の命と一つになっている実相なのだと。

「遊化」という言葉がある。遊ぶとという一心の世界が人生という苦界を喜悦に変化する。生きるための手段がそのまま目的と化して何の問題もない一体の世界。
人生の旅路の中で、私共はわが心に適ったことは追いかけ、心に叶わないことからは逃げようとする。逃げず追わず、躊躇せず、自惚れず、蔑まず、どのような境涯、運命に出会っても、姿勢を正し、真っ直ぐ生きて行く、それこそが精進であり、そこに人生の醍醐味があるということ。そこに人生の喜びがもまたあるのだということ。

人生の歩みも、その一歩を何かを手に入れるための手段に落とさないという姿勢で人生を貫く時、仏のいのちに添いきることができる。手段とか目的とかに線引きするのは結果ばかりに目を奪われやすい。私共の一息一息に手段も目的もない。いつも天地一杯の、私的なものを越えた世界、お仏の御いのちと連なっている。このことに覚醒し、喜び、感謝し、只今の大切なひと時を精一杯に、いのち輝くような生き方をしたいものだ。

人生を遊化するとは、畢竟、生死への執着を失くして生きることであろう。修を離れて証なく、証を俟たない修こそが本物なのである。それが仏道であると言い切ってよい。私はそう思っている。






ランキング応援クリック

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
1年ぶりくらいに書き込みます。
お久しぶりです。
私は今疑問に思ってることがあり、和尚様に聞いていただきたいのです。
道元禅師が「身心脱落、脱落身心」という言葉を発した時、私は道元禅師の目の前に宇宙が広がったのだと思うんですが、その時に道元禅師はこの世の実体を見たと思ったのではないでしょうか?
私自身はお釈迦様が菩提樹の下で正覚されたのも同じ体験と思っています。
しかしそれは無我の体験であり、生死は超越してるわけですが、本当に自己意識も無くなっていたのでしょうか?
時間と空間にのみ自由になっていたのではないかと思うんです。
というのは最近、埴谷雄高さんの「死霊」という本を読んだんです。
埴谷さんの「死霊」というのは私にとっては大変難解な作品でありとても読み込めている自信はないのですが、私なりに解釈しますと「死霊」の主題は「虚体=自動律の不快」ということだと思います。
この虚体というのは論理の涅槃だと思います。
自分の頭の中だけで自分を消し去ることだと思うのですが、これは無我とは違いますね?
この虚体の定義について埴谷氏は「かつてなかったもの、また決してありえないもの」と定義されています。
実体として認識できる宇宙とは違った景色が見えるのではないかと思うんですが、それが存在とどのように関わってくるかよく分かりません。


何か検討違いのことを書いていたらすいません。
いきなり不躾な質問で申し訳ありませんが、何かアドバイス貰えたら有難いと思います。
たーぼー
2012/02/22 18:12
たーぼー樣。
コメントありがとうございます。
先ず、埴谷雄高さんの「死霊」も、そしてそれへの考察も私には理解できません。
冷やかしているのではないので悪しからず。単純に何を云っているのか解らないのです。(^^;
道元禅師の得悟体験についてのアドバイスなど出来るようなお坊さんでもないのですが、今現在、私の「身心脱落、脱落身心」への「解釈」を書いてみます。
自己が自己に落ち着いたということなのでしょう。
厄介な事に、命は時々、自己を受け入れるのに手間の掛ることがあるようです。私が欲しがってやってくる「悟りの世界」など問題外ですし、「実体として認識できる宇宙とは違った景色」が見えるようになるというのも迷惑なことです。
私的な計らいを遥かに超えてやってくる「実相」との出会い、とでもいうべき「体験」があるのでしょうし、そこでは「私」とか「あなた」とかの線引きや垣根や見解や二見が問題で亡くなっているのではないのでしょうか。
「自分の頭の中だけで自分を消し去ること」
これこそが妄想の最たるものではないでしょうか。「無我」とは頭の世界の話ではありませんよね。この世の事実、実相であるというのが私共の世界認識であり、且つ、生き方、生きる姿勢そのものでなければなりません。哲学、思想、解釈などの「頭」に次元で済ましていいものではないと思っています。

こんな按配の見当違いのアドバイスでよかったら参考にしてください。反面教師という事もありましょうから。人の間違いから真相の見えて来ることもありましょう。(笑)
お大事に。
市堀
2012/02/22 21:53
返信ありがとうございます。
>自己が自己に落ち着いたということなのでしょう

まさしく無我というのはその通りだと思うんですが、埴谷さんの死霊を読むとこの自己が自己に落ち着くことを無我つまり自動律A=Aの行き着くところと仰っております。
しかしここでは自己意識は解決されてないと仰るんです。
自動律の不快とはこのA=Aであるという出発点を拒否することかと思うんですが。。
「身心脱落」という言葉が示すように肉体と心が脱落して頭の自己意識については残っているという主張かと思います。
埴谷さん曰く無我は1つの段階ではあるが、この自己意識を解決できてないと言いたいようです。
カントのいう矛盾領域「物自体」というのと埴谷さんのいう「虚体」とは同じものではないかと思い質問させて頂きました。

和尚様の仰ることはよく分かります。
お忙しいところありがとうございました。
たーぼー
2012/02/23 21:16
お忙しいところありがとうございました。
たーぼー
2012/02/23 21:17

コメントする help

ニックネーム
本 文
修証一如・人生を遊化するということ 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる