再生への旅

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zoom RSS お坊さんという典型

<<   作成日時 : 2012/02/28 04:50   >>

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けふからは春の猫とし憚りぬ 玉宗

お坊さんに求められている社会的役割とは何だろうと折節に自問自答することがある。
葬儀や法事などの儀式を司る「供養司祭者」、「冥界」との「仲介役」、「生死の境界」に立つ「番人」とでも呼ぶべき存在として見られているのが大方の視点ではなかろうか。
然し、自戒を込めて述べるのであるが、現代において余り期待されなくなったというべきか、忘れられようとしてる役割、面目、使命があることを失念してはならない。
それは云うまでもなく私たちお坊さんは「仏教の実践者」「生き方の典型」としての存在を志向しているのであって、社会もまたそのような実物を求めているのであろうし、求めてほしいものだという事。

現代人、老若男女を問わず、既成宗教にそのような「今生きている我々の苦悩」を「救い、解決」を期待しなくなっている現実があるのではないか。それに目を瞑ってはならないのだろう。
葬祭が葬儀社主導となりお坊さんはワンピースに過ぎなくなっている現実。それも社会がお坊さんに求める「供養司祭者」としての「役割」に対する消費社会の「対価主義」の反映であろう。社会は対価が安いに越したことはないのが大勢であるし、そこに生活改善、シンプルライフのご提案、サービス提供という名のもとに利潤や手間を省くことだけを求める業者や自称仏教徒が現れるのは驚くに値しない。

布施行という観点から云って、葬祭業という治生産業を否定するつもりもないし、否定しようもない。少子高齢化で隣近所で死者を送るという共同意識などとっくに無くなっている現代。葬祭業は大いに便利で、役に立っていることであろう。葬儀者主導の葬儀という「社会儀礼」の「見積もり」から「僧侶」という項目が無くなるのではないかという識者もいる。葬儀は既に「宗教儀礼」ではなく、義理チョコ産業に乗せられた消費活動と同じレベルの「社会儀礼」になろうとしている。

話は元に戻り自戒を込めて云うのだが、それもこれもお坊さんたちが「典型」にならんとすることを止めたことによる自然の成り行きとでも云うべき現象ではないか。社会が「生き方の典型」を求めなくなる。それはある意味、幸いなことだろう。然し、現実には毎年年間三万人以上の自殺者があり、心を病んでいるとしか思えない社会現象や事件が絶えない。そのような社会にお坊さんが「生きる典型」として切り込んでいくことは決して不遜な事ではなかろう。お坊さんも又、存在して行くには「社会的役割」「社会的関係」を必要とする。仏教に残る既成の風習や風俗に胡坐をかき、安眠するのではなく、目を見開いて社会の闇を切り開こうとすることも無駄ではあるまい。

お坊さんが人間再生のための歩哨、現代のドンキホーテとなってもよいのではなかろうか。自虐史観で自己を蔑んだり、或いは成り行き任せと知らんふりをしている場合ではないだろう。凡庸なお坊さんではあるが、「生き方の典型」ではなく、「愚の骨頂」に成り下がりたくはない。







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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
和尚の話は抹香臭くなくてエッセイとしても面白いのです、本日は皆さんに俳句を止してコメントのみとさせて頂いておりますので何しろ苦労しています、(笑)。
今の世の中、ひとり宗教者だけが超然と生きられる筈もありますまいね。どうぞ、道に迷える子羊をお見捨てありませぬように。
yoshiyoshi
2012/02/28 12:10
yoshiyoshi樣。
人間だれしも超然としていてもいいのでしょうが、要は何を根拠に、何を宗として自立しているかが問われるのでしょうね。
他に譲れないものをお持ちのよしさん。仔羊なんて云ってはいけません。(^^;
市堀
2012/02/29 12:31

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