再生への旅

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zoom RSS 戒律は長い友達

<<   作成日時 : 2012/03/10 04:07   >>

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湯に入るが如く田起し始めけり 玉宗

精進とは仏教の戒律を守り、一意専心、余念なく仏道の修行に励む事とされる。そのような修行は「道」に適うことを狙いつつも百発百中とはいかない。それでも一発百中、百発一中という本質を備えているから有難い。言い方を換えるならば、いつも本番、一回きりということ。「行」が怯まず、諦めず、淡々としたものである所以もそこにある。それは誰かとの競争ではない。自己が自己の命へ深まるだけのことだ。

その「精進」と不即不離の「戒律」とは仏道を歩む自己を萎縮させることではなかろうと思っている。戒律は本来、自己の解放のためのものであり、放埓極まりない欲望を調え、拘りのない世界と一体である自己の身心に波長を合わせる為のチャンネルのようなものであろう。
肉食妻帯が破戒なのではない。命活かしきらない事が不殺生の破戒なのであり、「空にして公なる諸法」に執着することが破戒なのである。肉や魚や女性が罪悪なのではない。執着することがなければ、すべてがなんともなく、あるがままという実相。そこを如実に知見することこそが戒を守る本義であろう。


正道の「正」は「一に止まる」と書く。どのような世界でも、その道に入ったら、その道を極めるための作法、戒律があろう。漁師には漁師の、商人には商人の、政治家には政治家の、教師には教師の、大工には大工の、芸人には芸人の、職人には職人の、軍人には軍人の、死刑囚には死刑囚の、善人には善人の、悪人には悪人の、男には男の、女には女の、草には草の、木々には木々の、空には空の、水には水の、生には生の、死には死の「戒律」があるだろう。

仏道も例外ではない。「一」という実相に向かって左右にぶれず、命真っ直ぐ生きる。それが精進。「戒律」を守らんとするのも、すべて「道」を歩む為。仏道を仏道たらしめんが為の長い友達のようなものである。そして、仏弟子とは実相を生きるという理想を掲げて生きている生身の人間のこと。その実際は、間違ったり、出来そこなったり、行きつ戻りつ、懺悔しつつ、千年一日の如き道程である。
道に引っ張られ、戒律に引っ張られ、道に押され、戒律に押され、宥め透かされ、曲がり真っ直ぐ。それもこれも自己を深め、自己に落着せんがための歩みなのである。本来的に、埒外にいる者が破戒だ、持戒だ、ああだ、こうだと戯論を振りかざして非難されるような筋合いのものではない。それ故にこそ人生の一大事であり、宝なのだと言いたい。






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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
待ち居れど止む間はあらず春の雨  よし
yoshiyoshi
2012/03/10 04:49
yoshiyoshi樣。

意外としぶとい春のだらだら雨です。煩悩の雨が降る降るといったところでしょうか。(^^;


市堀
2012/03/11 18:43

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