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zoom RSS 修行の厳しさとは?!

<<   作成日時 : 2012/03/18 04:49   >>

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芽吹かむと光りに濡れてゐたりけり 玉宗

「禅宗のお坊さんは厳しい修行をしなければならないのでしょう」といった同情とも憐れみとも敬遠とも軽蔑ともつかないの言葉や眼差しを受けることがある。

「厳しさ」とは何だろう。

一口に「厳しさ」とか「苦」といってもひとくくりには出来ないところがある。早起きが苦であったり、人と同じ空間にいる事が苦であったり、麦飯を食う事が苦であったり、正坐が苦であったり、叩かれるのが苦であったり、そして、その反対にそれらがすべてなんともなかったり、かえって楽しくてしょうがいないといった人もいることであろう。善悪、苦楽は定めがたしといった事実が先ずある。

そしてまた、百人、二百人に上る修行僧の共同生活と、二十人前後の雲水が安居している僧堂、そして住職となり一人での修行では、その実際も趣が違って当然ではなかろうか。一般の社会でも人数の少ないところでは家族的な雰囲気が漂うだろうし、構成員の多いところでは規律というものを優先しなければ収拾がつかなくなるというものだ。それはお坊さんの現場でも同じ事情であろう。只、履き違えてならないのは、「共同生活を破綻させないための厳しさ」と「行」を成就せんがための「厳しさ」とは違うということである。

共同生活にありがちな集団心理が齎す、言動に亘る暴力といったものは、「行の厳しさ」とは一線も二線も画さなければなるまい。どこやらの厳しい修行に耐えて来たお坊さんが、「俺は厳しい修行に耐えてきたんだ」といった「慢心・我慢」のかたまりになってしまっていることが無くはない。哀れなことである。無私なる世界へ飛び出さなければならない仏弟子が、「われ」という偶像・妄想に捕われてしまうのである。

お釈迦様の示された「中道」とは極端に走ることを戒めた「行」の真偽の要となるものであろう。当に「道に中(当たる)」ものでなければ本物の「行」とは言えない。体力や知力にものを言わせる競争や餓鬼や阿修羅の同様の世界が「道」に適う方便だとは思えない。「中道」は世間的評価の苦行からは畢竟得るものがなかったと諦観した果ての道標であっただろう。求道者にもいろいろあると言えばそれまでだが、「道」の「道」たる所以は、「共にある」「一体」のものだからであろう。「行」の「厳しさ」までをも「わたくしする」のは如何なものかと言わざるを得ない。況や、我執の仕業としか言えない「暴力」が「行」の「厳しさ」でないことは言うまでもなかろう。

今、ここの、いのちの真っただ中を戴いて、執着なく諸行無常する。自己ぎりの自己を生き切る。命なぶらず、ありのままに生きる。戒律を持するのもその為であり、厳しさとはつまるところ、自己の執着心の反作用のようなものであり、厳しさを感じている分だけ自己の業の深さに思い至るがいいのだ。古来より多くの修行者にとって「仏道」が困難なのは、自己の決着が外から齎されるものではないことの証左である。自己が自己に参じる。それこそが「真の厳しい道」「行」であり、その厳しさは自己のみが知る領域であるからこそ救われるのであろう。

「仏道の厳しさ」も又、様々な道の厳しさと同様、比較してみても何を言ったことにもならない。在家の方々にはその辺の真偽を理解していただきたいと、常日頃から感じている次第である。






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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
>自己が自己に参じる。それこそが「真の厳しい道」「行」であり、その厳しさは自己のみが知る領域であるからこそ救われるのであろう。
<どんな「道」の修行にもいえることですね。
遊子
2012/03/18 06:22
をだまきや糸繰る日々の尽きるなき  よし
yoshiyoshi
2012/03/19 09:15
遊子樣。
「道」に教わる謙虚さが人を育てるのでしょうね。

yoshiyoshi樣。
今は昔の風景となってしまったのでしょうね。
母手編みの毛糸のものをよく身につけていましたね。
市堀
2012/03/20 08:26

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