再生への旅

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zoom RSS 同行三人

<<   作成日時 : 2012/03/30 03:58   >>

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一人より二人は哀し春の風 玉宗

ここ二か月間、弟子の上山準備に余念なく過ごしていた。送りだした後も、彼と共に過ごした日常を反芻しながら同じ行持を一人で勤めている。朝晩の坐禅は勿論、お経を上げるにも、飯を戴くにも、掃除をするにも、眠るにも、弟子がそこに居る如く振る舞っている自分に気付く。夫人も又、ことあるごとに倅の身を案じ、上の空であることが多い。そして、今頃彼は慣れない僧堂生活で戸惑っているのではなかろうかと、夫人と共にそんなことを心配している。そんな風にして居間に坐って二人でお茶をすすっている。夫人は私の前で涙を見せてはいないが、倅のことを想って泣いている筈である。私はと言えば、正直に告白するが、密かに三回は泣いている。そのような贅沢な愚痴や取り越し苦労や親ばか加減も、彼が私たちに与えてくれた人生への贈り物であることに感謝したい。

気が付けば三月も末である。結社「栴檀」の課題句や今年度俳句大会の「結社賞」と大会俳句賞の選考が迫っていた。窓の外を見れば、昨年から始めたお寺の畑が荒起しをしてくれと云わんばかりである。弟子も今頃は必死に「今と格闘している」ことであろう。
倅を僧堂へ送り出した安堵と不安。そのような余情にいつまでも浸ってはいられない。目と鼻の先に居るとは言え、僧堂に安居修行しているということは、掛け値なしに「死んだもの」と覚悟して臨まねばならない本質がある。愛根を断ずることが出来なくて、どうして彼を一人前の仏弟子に育て上げることが出来るだろう。人情が仏道にあってはならない、というのではない。仏法は人情や世間の常識を越えた「彼岸」なのであり、彼自身がその「彼岸」を実際に我がものとすることが求められている。そうでなくて、どうしてお坊さんが彼岸へ人を導くことが出来ると言うのか。

師匠と弟子。父と子。仏法で繋がり、血肉で繋がる。それは決してややこしい詭弁ではない。どんな世界でも、「道」とはそのような、端的にして、且つ、いわく言い難い、阿吽の呼吸に生きているのであり、「同行」とは同じ方向を向いて歩こうとしているに過ぎない。親といえども子の足に代って歩くことはできないし、してはならない。人情とは人生の彩りであり、潤いであろう。しかし、人情が「道」を誤らせるということもよく耳にし目にするのが娑婆の実際であるのも又否定できないだろう。

そのような「出家」の本義が現代に於いても揺らいでいない事を私は疑っていない。そうではあるが、ご覧のように、師匠も弟子も人の子である。彼が真に「仏道」の「同行者」となることを望みながらも、私の何処かに、いつまでもわが血肉を受け付いた愛しい分身であってほしい、といったわがままな思いを引き摺っている。お坊さんとして落第であることは間違いない。弟子には反面教師として接していくことになるだろう。佳き出会いを願っているのもそうした自責の念が私の方にあるからである。






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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
踏みしめる 歩歩に花咲け はちすはな
藁の緒結いし 思い甚深

姥の笑み 過ぎ来しかたに 光さす
いのち模様の 衣はつややか

貧女の一灯
2012/03/30 05:16
こんばんは。
いつかは旅出させる息子さんなんですが、
それは親が寂しさ、辛さに堪える修行ですね。
天からの預り物、いずれ世の中にお返しするものなんだと思います。
見違えるように逞しくなって帰っていらっしゃいますよ。
親は 悲しいなあ!!
ルフレママ
2012/03/30 20:27
陽の射して立つも坐るも仏の座  よし
yoshiyoshi
2012/03/31 08:15
貧女の一灯樣。
いつも浄土のお歌をありがとうございます。

世を出んと山の霞に濡れにけり 玉宗

ルフレママ様。
始まったばかりの倅の修行。親の方が先に挫けてしまいそうです。(笑)

yoshiyoshiさま。
上手い!
市堀
2012/04/01 07:26

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