再生への旅

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zoom RSS 俳諧という枯野を駆け巡る御中虫という実弾の夢

<<   作成日時 : 2012/04/01 03:25   >>

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形而下も捨てたもんじやない蕗の花 玉宗


御中虫という若手俳人がいる。恥ずかしながら最近まで能登の田舎俳人である私は氏のことをよく存じ上げなかった。今年に入りFBをやり始めて注目するようになった次第。御中虫とは如何なる「俳人」なのか?例によって独断と偏見と説教じみた内容になる。

先ず、第三回芝不器男俳句新人賞受賞記念句集『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』(財団法人 愛媛県文化振興財団・2011年3月)から抜粋する。

朝の滝さあ落ちやうぜ出発だ
せいぜい着飾ることだ誰も見てをらん
机を叩く机を蹴る私は蚊ぢやない
おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ
原爆忌楽器を全力で殴る
生まれたと無意味に叫べ今は春
満天の星(仰げば無駄がひとつもない)!
排泄をしようぜ冬の曇天下
歳時記は要らない目も手も無しで書け
グラビアにじじいが葡萄もって微笑むのが笑える
紅葉嫌ひピンクと黒しか好きぢゃない
混沌混。沌混沌。その先で待つ。
季語がない夜空を埋める雲だった
向日葵が怒鳴りつゞけてゐる虚空
夏雲を食ふ夏雲を食ふ夏雲
暗ヒ暗ヒ水羊羹テロリテロリ
手首切りました向日葵咲きました
秋と秋と秋にレイプされました
結果より過程と滝に言へるのか


前衛とか伝統とか、結社とか協会とか、といった枠組みや縛りや絆を越えた、現代俳句の確かな潮流があることに目を瞑ってはいけない。こころ揺さぶられるものがあることは確かであろう。赤裸々なものは何なのか、倫理を壊すとは何のことか?詩とは何か?
私は若き作家の作品を前にして自己に問い直さなければならない。一度でも俳句を疑ったことがあっただろうかと。

氏にはもうひとつ、震災句集『関揺れる』が刊行されている。「関」とは震災に遭った知人の名であり、「関揺れる」が詩の核となる季語なのだという。


関揺れる人のかたちを崩さずに
神仏の力を超えて関揺れる
セックスぢやなひんだ関の微振動
揺れながら物食ひ寝ながら揺れる関
海凪いで関が揺れたら鳥逃げる 
関揺れるさうかそつちが死の淵か
雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ関揺レル 
横揺れの関ほど怖いものはない
関曰く揺れない方が変なのだ
関ほどのをとこもやはり揺れるのか
日本人代表として関揺れる
「この季語は動きませんね」関揺れる 
さあどうする?こうしてる間にも関は揺れるんだぜ?
けふもまたドメスティックに関揺れる 
便器からはみ出すうんこ関揺れる 
冷静な振りをしながら思い切り揺れてるじゃねーか関
関揺れてゐることを思へば何のこれしき  
このやうにわけなく揺れることができますと云ふ関の ドヤ顔
暖房を消して関氏の揺れ思ふ
俺が揺れずに誰が揺れるか関揺れる
睾丸の左右の長さ関揺れる  
本日はお日柄もよく関揺れる 


これは俳句ではない、という人も居られるだろう。確かに、このような震災俳句は見たことがない。言葉遊びを面白がっているだけで、単なるおふざけ。不真面目。詩ではない。どこに俳諧の格があるのだろうかと。
然し、自他の作品に対してたかが俳句と侮っているのは誰か?と言いたい。
このような攻撃的、破壊的、後先考えない無鉄砲な作品を前にして、自己がどこまで俳句に人生を向き合わせて生きているのかと再確認するのも無駄ではあるまい。ましてや、震災に対して俳人としてどう向き合ってきたのかと問うているのである。俳句も又、時代の落し子である。俳壇の空気を吸う前に、時代の空気を吸い、触れている。

ここで氏の散文による肉声を少し聞いてみよう。震災俳句を作った動機として、先ずは長谷川櫂の『震災句集』に対抗してのことと告白する。

<彼とはまったく別の切り口から震災をうたうこと。彼の句に感動する読者層は捨てゝ、「長谷川櫂キモイ」って思ってる読者層にわかってもらへる句群をだすこと。「東日本大震災」「地震」といふことばを捨てること。だいたいそういうルールといふかポリシーのもとに、虫は上記125句を書いた。>

<先に書いたやうに、こゝにをける【季語】は、【東日本震災忌】などではない(実際あるんだよ!ばかじゃねえか)。
【関揺れる】これが虫の震災125句の季語となってゐます。
なぜか。虫は被災者ではありません。虫の近しいひとたちもほゞ全員被災者ではありません。虫はテレビを普段見ません。新聞もとってない。ラジオもない。およそ 世間のニュースからかけ離れたところに虫のいとなみは地味にある。しかし この地震のことはツイッターを通して知った。普段見ないテレビも少しは見た。ニュースなども見た。
心はもちろん痛んだ。……でもね。
冷たいと思うかな。別に思ってくれてかまわなひ。虫は我が身のこととして 東日本大震災を ひきうけられはしない人格の持ち主である。
ただし関悦史さんという被災者がゐた。
関さんとはたった二度ではあるけれどもリアルにお会いして、またふだんツイッターでの彼の知性とユーモアと機転、人柄などなどにはとっても魅力を感じてゐるし、虫がつらいときにツイッターでとおくからやさしいこえをかけてくださることもしばしばあり。個人的には親しみを感じてゐるのね、先方はどうだかわかんないけどww

そんな 関さんが被災者であるということは虫にとっては大事件であり、しかもいまだに関さんのゐる地方がしばしば(けふも)揺れてゐる、ということ、関さんの「揺れた」といふわづか三文字のツイートにもこころが動揺すること、これは、紛れもない事実なのです。
云わば虫は関悦史の「揺れツイート」を通じてのみ、この震災に向き合ってゐる。それ以外は、ない。

なので、【関揺れる】といふ【東日本震災忌】に代替する季語を自分でつくる必要がありました。>

<だからな、長谷川櫂!
虫のやったことはアンタにくらべりゃ鼻くそみたいなことだけど、それでもそれなりの意味があったんだよ!
そしてな、俳人たちよ!
議論もいいけど実作で戦ふといふことを、しないひとが多すぎて、虫はいつも物足りないよ!まあ忙しいといわれたら黙るしかないけど!ちっさくても、実弾投げようぜ!実弾を!>



旅に病んで夢は枯野を駆け巡る 芭蕉

俳諧とは枯野を行くごときものではないか。淋しくも、拘るもののない、妙に明るい枯野。嘗て、山本健吉は俳諧の軽みとは畢竟、命の輝きのことだと言ったという。虫氏の作品の衝撃は、今を生きる氏の命の光りと影の波長である。氏の眼差しには長谷川櫂という俳人が、現代の宗匠然とした風雅の典型として映っているのではなかろうか。これが風雅に遊ぶということか・・・なんという重くれ!なんという絢爛豪華!なんという権威!なんというつまらなさ。

長谷川は私とほぼ同年代であるが、彼も又、彼自身の「已むに已まれぬ腸からの思い」と付き合って生きてきたのには違いないだろうし、俳諧の枯野に人生を賭け実弾を投げ返して来たのには違いないだろう。
然し、長谷川と雖も自己を偶像化するという俳諧にあるまじき愚を侵さないと誰が言い切れるのか。
徒党を組みたがり、殿堂入りや飯のタネに事欠かないことが頭から離れない分別のある大人たち。俳諧の批判精神を忘れた物分かりの良い現代の俳人諸氏に持ちあげられて殿堂入りしてしまったかの如くに見えない事もない。後人侮るべからず、チヤホヤするべからず。

上手な俳句、差し障りのない俳句、そんなものは屁でもないといった若さの言い掛かりにも、笑って済ますことができない真実がある。若者は詩という匕首を懐に生きている者のことであり、詩と刺し違えても構わないといったヒロイズムを持ち合わせている。文芸の革新はそのような若者の正義感が先ず切り込んできたのではないか。

虫氏の咆哮は俳句の典型となってしまった長谷川櫂の俳句宇宙に響くだろうか?否、そんなことより、俳諧という枯野の地平で、虫氏は今後どんな夢を紡いでくれるだろうか。俳諧の枯野に新たな神話を創造してくれるだろうか。


結果より過程と滝に言へるのか 虫

結果を恐れて「今」を蔑ろにするな、といった訓戒も、氏には空々しいものなのだろうか。結果で全てを決定する大人たちの分別顔は、まるで氷ついた冬滝のようではないか。怒涛の如き、命の瑞々しさ、勢いに圧倒されている若き感性がここにある。若者はいつも正直であり、そして時に正直過ぎて傷つく。世の中は過程より結果がすべての偽りに満ちた現実だという迷信が若者にはある。「現実」は虚にして実であるというのが実相ではなかろうか。虫氏にはそんな拘りのない、広い、偏らない、可能性に満ちた枯野に躍り出てほしい。

人はいつも、どこでも命の実弾を抱えて生きている。それは比べたり出来ないものだし、比べてどうなるものでもない。誰に遠慮もいらないが、自慢するようなことでもない。ごく自然な、当り前の事実である。自己の命の実弾・命の絶対性を受け入れて生きて行くしかない。余所見をしない。結果も過程もない。命はいつも「今、ここを」戴いているばかりであり、それだけが「永遠なるもの」へ繋がる唯一の手段であり、目的ではなかろうか。人はそうやって夢を育て、夢に生きて行く。

駄辦を弄した。一言でも取るに足るものがあれば幸い。氏のご加餐とご活躍を祈る。頑張れ、御中虫!


最後に氏の最近の作品を挙げて筆を擱くことにする。


見よや見よひたゝ寝といふ生きざまを
ひたゝ寝は生まれてくるまへの思ひ出
ひたゝ寝は生まれてきたあとのむなしさ
何ト云フ暗ヒ朝日ダヒタゝ寝ス



御中 虫(おなか むし、1979年8月13日 - )は、俳人。大阪府生まれ。京都市立芸術大学美術学部中退。大学在学中に龍谷大学現代俳句講座を受講、句作をはじめる。2010年、第3回芝不器男俳句新人賞受賞。「夏雲を食ふ夏雲を食ふ夏雲」「一滴一罪百滴百罪雨ハ蛙ヲ百叩キ」など、定型に囚われない挑戦的なスタイルが評価された。同年万葉千人一首俳句の部グランプリ受賞。第14回毎日新聞俳句大賞小川軽舟選秀逸入選。2011年、第一句集『おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ』刊行。

2012年第2回北斗賞佳作。同年3月、第19回西東三鬼賞秀逸入選。文学の森俳句界賞受賞及び第14回尾崎放哉賞入選。同月、第二句集『関揺れる』刊行。同書は長谷川櫂の『震災句集』に対する批判的意識から、自分の「震災句集」を作ることを意図してツイッター上で発表された一連の作品をまとめたもので、いずれの句も「関揺れる」を「新季語」として詠み込んでいる。「関」は交流のある俳人関悦史のことで、関が東日本大震災において茨城県の自宅で被災し、その後も頻繁に地震が起こるたびにツイッターで揺れを報。「ウィキペディアより抜粋」。





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
初桜大往生を既に決め   よし
yoshiyoshi
2012/04/01 06:10
yoshiyoshi様。
なるほど、欲のない人間の花見風情というところですね。
市堀
2012/04/03 10:06

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