再生への旅

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zoom RSS 運命について、春愁というほどでもないんですが・・

<<   作成日時 : 2012/04/21 04:06   >>

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生きてゐるただそれだけのうららかさ 玉宗

人生の山河、それは私の力の及ばない領域から展開する邂逅、離別、愛憎、試練などの絵巻物のようにも見えてくるようになった。私の計らいや知解や喜怒哀楽を越えた、人生の展開・巡り合わせ。五十半ばを過ぎて、運命・天の采配、或いは自業自得、因果応報、因縁といった次元のものに抗しきれない力学を感じることが多くなった。

「運命を生きる」という言葉を違和感無く受け入れようとしている私がいる。それはわが命の不思議さを担い続けようとする覚悟なのだろうか。

右往左往、ジタバタしても、なるようにしかならず、挙げ句は、私の思い通りになることが逆に恐ろしいことでもあると観念するようになった。俺が、俺がと騒いで生きて五十年。世界は私の都合に即して回ってはいない。そうではあるが、天地の軸を世界と共に回っていることには違いない。それは「私」に拘る事の虚しさ、危うさを知らされた果てに見えて来た地平である。生きていく私とは、このような二極一体の世界の中で揺れている陽炎のようなものであろう。

運命は切り開くものだというが、確かに今ある私の世界は私が切り開いてきた荒野であり、楽園であろう。形なき「思い」が形なきままで止まらず、「行動」となり「言葉」となり「意識」となり「五体」となり「血」となり「肉」となり、「迷い」となり「覚醒」となり、「因」となり「果」となって「今、ここのわが世界」が現成している。思えば不思議千万な事である。

その「私」とは何であるか?といったことに自問自答してきたが、私を牽引しているのは私であって私でないといった表現でしか「わが運命」の主催者の存在を告発出来ないのである。自己が救い難い存在であると同時に救われているという自覚は、運命の力学の埒外に飛びだすことはできないという諦念とセットである。「運命」、それは時に苛酷であり、時に潤沢であり、時になんともない。

私と云う些細な存在の手に余るものであってこそ人生は生きるに値すると言っていいだろうし、生きるとは、そのような計り知れない運命の展開を受け入れることを学ばなければならないということでもある。

わが人生とはなんであるか?

それは、死と云う運命の最後の切り札を従容と受け入れるための学習であると思えなくもない。

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<春麗雑詠>

永き日を持て余しては憂ひける

咲き満ちて花の闇さへ眩しかり

待たさるゝことにも厭いて落椿

花菫光りに揺れてゐるごとし

声明のやうなる蜂の唸りかな

蝌斗と生れおしくらまんじう命懸け

咲き群れて白々しくも雪柳

蒲公英を見るたび思ひ出す教師

声出して笑はずなりぬ筆の花

人といふ化けの皮剥ぐ桜かな






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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
濃山吹どっこいおいらは生きてゐる  よし
yoshiyoshi
2012/04/21 06:48
昨日の句で、声明のやうなる蜂の唸りかな が印象に残っていました。

花てぼ
2012/04/22 08:29
yoshiyoshi樣。
なんだかんだひっくるめて生きているわたくしめでございます。

花てぼ様。
声明のように聞こえたんです、ほんとに。思わずあたりを見回しました。
市堀
2012/04/24 08:22

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