再生への旅

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zoom RSS 仏道は五体満足でないとできないのか?!

<<   作成日時 : 2012/05/03 04:06   >>

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明日葉や傷舐めて雲追ひかけて 玉宗


大乗寺の雲水だった頃、一度だけ堂長さんに頼み込み、富山県高岡市にある臨済宗国泰寺に参禅した事がある。その折、国泰寺山内に片腕の雲水さんがいらしたことを未だに覚えている。一瞬目を疑ったが出家したことが間違いではなかったと一瞬に感動へと変わった。

いきなりこんなことを言い出したのも、世間には「坐禅は五体満足でなければできないのか。禅の救いとは肢体不自由な人間には叶わない事なのか。それは差別ではないのか。」といった自力への狭い見解が根強くあることを知らされたからである。

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私の結論は以下の如くである。

坐禅は宗門に於いて仏道に入るの正門であるとされているが、仏道の全てではない。仏道は、脚や手足のない者、五体不自由な人、もっといえば四苦八苦に喘いでいる人、迷悟の真っ只中にいる人、もっといえば縁なき衆生にとっても開かれたものでなければならないだろう。そうであってこそ、普く勧める意義があるというものだ。

坐禅に限っていえば、その実際は脚を組むなどして身口意の三業、つまり身心を調えるものである。然し、大事な事は身を安じ、心を安じる当処は人それぞれの工夫があってしかるべきであることを忘れない事だろう。実際そのようにして人は自己の命に親しんでいる筈だ。五体不満足であったり、病中にあっても身の執着、心の執着を離れる工夫の場・仕方はあるだろう。今、ここに生き切るという仏道の様子は、言い方を換えるならば、どこでも道場であるということで、五体満足の坐禅でなければならないと言うものではないだろう。作務という動の端的に安心決定することもあろうし、病床において安心決定する契機になる人もあろう。

掛け値なしで言うのだが、私は自分自身をまともな人間だとは思っていない節がある。拙ブログをご覧戴いている方々には市堀玉宗が煩悩の巣窟のようなものであると察しがつくであろう。私にとって坐禅は無くてはならないものであるが、それはそのまま私が五体満足であるからだという差別の恩恵を受けていることを意味はしない。私がかくのごとくあるのは私の預かり知らない必然性に依るところが大である。つまり、煩悩の在り方も千差万別であるということを言いたい。そして煩悩の数だけ解脱の窓口、契機がある。それもまた命の実際の様子ではないか。

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たとえば、執着を離れるということについても、執着は身にあるものなのか。心にあるものなのか。離れるとはどういうことか。身体不自由なものには執着はあるのか、無いのか。彼らには離れるという「行」の機会はないのかあるのか。誰にとって執着を離れることが必要であるのか、ないのか。等々、ことはそう単純な問題ではない。何故か?みなそれぞれに生身の人間の領域、命の絶対性の世界の話だからである。

禅はエリートの宗教?そんな阿呆なことはありえまい。かと言って凡愚のままでいる為の「行」でないことも明らかであろう。救われたいと願っているのは何処の誰なのか?あの世での救い?本気でそのようなことを期待している者にとってこの世とは既にどれほどの意義のある世界だろうか。この世は過程でしかないのか?それこそ精神衛生的に言って不健康ではなかろうか。それでいいのか?と釈尊は自問自答したのではなかったか。

病人より健常者の方が救われると誰が言ったのか。健常であることの恩恵がそのまま心の平安を齎すとは希望的観測に過ぎない。この世の平安がどれほど健常な人間によって蹂躙されてきたことか!宗教は「それでいいのか?」と問うているのである。

草や木や虫がそれぞれ命の限り輝いて精一杯生きているように、五体不満足も五体満足も、みなそれぞれにそれぞれで輝いていればいいのである。それが命の実際である。そのような命の質量、深さの実相と、弱きものへの情愛の有無を混同してはならないと思う。情けは人の為ならず。坐禅は人の為ならず。命は人の為ならず。みなそれぞれがそれぞれに生き切る。それを成仏と言いたい。死んだ後の話をしているのではない。

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ところで俳句もまた、大衆文学とは言いながら五体満足でない者には縁のない世界なのか、といった疑いを抱かれる虞もないことはない。写生、写生というが目が見えない者には写生俳句が閉ざされているではないか。嘗て、森澄雄がこのような自問自答に対して、俳句は「虚実の皮膜に遊ぶものでああり、実一辺倒では詩的世界が狭くなろう。虚という大きな世界に包まれ、芯として生きて行きたい。自分の俳句はそのような、ごく普通の人間である私の生きている証である」みたいなような事を述べていたのが印象的であった。

正岡子規は病状六尺が自己の天地であったことを知らない者はいないだろう。脊椎カリエスで寝たきりになった不自由さの中で、子規はあれだけの仕事をしたのも事実である。「悟りとはいつでも死ねると言う覚悟ではなく、どうなっても生きていくこだ」とも彼は言い残している。子規は俳句で多く業績と革新を遺したが、この言葉に象徴される生き方を後世に遺したことも紛れもない業績の一つであろうと私は思っている。凡庸なお坊さんの為しえない事を子規はやってのけた。大した奴である。





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
朝凪や一夜の黄泉を越えたるか  よし
yoshiyoshi
2012/05/03 07:10
yoshiyoshi様。
悪夢に魘される夏がやって来ましたね。

市堀
2012/05/06 18:33

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