再生への旅

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zoom RSS 「死」を証明しなければならない社会

<<   作成日時 : 2012/05/04 03:46   >>

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鈴蘭のまだ風呼ばぬ姫蕾 玉宗


昨日今日と、久しぶりに雨の音を聞いた様な気がした。
畑には根を張るにもってこいの潤いであっただろう。境内の草木も花や葉の色が映えるようになってきた。今月の16日には興禅寺の花祭りを控えている。綺麗な花で慎重になった花御堂を飾ることができるだろう。

先日、輪島市内の信者さんのご主人が亡くなった。長いこと肺を病んで自宅で療養していた。奥さんと二人暮らしで、その日は朝になっても御主人が起きて来ない。胸騒ぎがして寝室へ駆け込むと眠るように息絶えていたのだという。枕経にお伺いして穏やかな顔を拝してきたことだった。

取り上げたいのは枕経に至るまでの話である。
その後、奥さんは直ぐに掛り付けの医師に連絡を取り、死亡確認という段になったのだが、警察の立ち合いがあったのだという。聞けば、よくあることで、二人暮らしの一方が自宅で亡くなった場合はその死因を特定するのに医師だけの証明では足りない世の中になったことを知らされた。相変わらずのわが世間知らずであることよ。

亡くなった親の年金を受け続けていたという事例や、保険金目当てなど、家族の死さえ事件性のないことを第三者に証明して貰わなければならない時代なのだった。病院で亡くなっていたらこのような事はないのだろう。それは揺り籠から墓場までを家族と共にではなく、現代が福祉や医療という名を借りた第三者の介在がなくてはならない社会であることを如実に語っているように見える。

それは核家族とか無縁社会などの問題と並行してあるものなのだろう。
遺族である家族も又、社会に向かってその「死」を証明しなければならない。それはある意味当然のことで、本来それは地域社会から欠けることを感謝を込めて知らしめた儀礼であった筈である。地域を挙げての葬送が当たり前であった時代。そこでは遺族に「忌中」の意を表した「哀しみ」だけがあればよかった。

然し、現代では社会の一員である人間の死は遺族の「哀しみ」だけでは成り立たない。「葬儀」が宗教儀礼より社会儀礼に重きを置くようになった所以でもあろうか。そこには福祉社会の恩恵に与る権利と義務に纏わる欲望の匂いが漂っている。「死」を証明しなければならない社会。有難くも、やりきれない世の中の仕組みではある。





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
これはまぁ聞いて可笑しき薬の日  よし

五月五日は「薬の日」なんだとか、年寄りが消費する薬の量を思って不謹慎にも藁ってしまった。
yoshiyoshi
2012/05/04 04:01
yoshiyoshi様。
薬の日ですか。有難くも遣り切れない福祉社会ですね。
市堀
2012/05/06 18:35

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