再生への旅

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zoom RSS 賽銭箱・喜んで捨てる?!

<<   作成日時 : 2012/06/12 04:06   >>

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五月雨や奈落へ落つる銭の音 玉宗

能登半島地震でも壊れなかった興禅寺の賽銭箱。被災後「再生」と記し、山門に据えた。再建なった現在もそのままである。嘗て「賽銭に混じる落葉や木の実やら 玉宗」と呼んだこともある興禅寺の賽銭事情。想像がつくことだろう。

一般的に(勿論お寺の世界の一般であるが、)賽銭箱には文字通り「賽銭」と記されたものが多いようだ。「喜捨」とか「浄財」「布施」というのも目にする。数ある世の賽銭箱の中でも「再生」と書かれたものは興禅寺だけではないかと思う。ところで何故お寺をお参りする際にはお金を捨てなければならないのだろうか、それも「喜んで!」。

「お賽銭」も「お布施」であることに違いはない。つまりそれはどちらも仏教徒としての「行」である。「えっ!行だったの!」とギョットされるかもしれないが、あきらかに「行」である。つまり人から(勿論お寺さんからも)強制されるような筋合いのもではないとうこと。自己が清浄になるだけのこと。「賽銭」もまたその例外ではない。そのような次第の「行」であると心得て置いた方が余程御利益があろうというものだ。

「行」の徳目にもいくつかあり、「布施」もそのうちの一つである。その「布施」とは貪らないこと。意外に思われるかもしれないが、与えることではなく、その本質は貪らないことだという。まあ実際の話し、貪りの強いものが与えることもないのが現実である。お金だけではない。言葉ひとつ、笑顔ひとつ、手をさしのべることひとつできない「自見への拘り、執着の強さ、貪りの根強さ、欲深さ」に思い当たることはないだろうか。

「俺が、俺が」という狭い世界でのやり取り、右往左往からの解放。捨てなければならない理由の一つがここにある。お金を捨てろとは誰も、何も言っていない。捨てるとは本来こころの領域の話である。そのような宗教的実践によって展開するひろやかな、のびやかな世界。そのような命の領域を喜ばしいとする人を仏教徒と云うのである。そのような人に限ってお賽銭を惜しむこともなければ、貪ることもない。

情けは人の為ならず。お布施は人の為ならず。「行」は人の為ならず。「捨てて喜ぶ」理由がここにある。「喜捨」と記された賽銭箱。決して住職を喜ばせるためのものではない。私が自坊の賽銭箱に「再生」と書いたのも私自身を含め能登半島地震の被災からの再生は勿論のこと、どのような境涯になっても参拝者が自己再生を成して欲しいという願いがあったからにほかならない。





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
でで虫やオイラも雨の散歩です  よし
yoshiyoshi
2012/06/12 07:18
yoshiyoshi樣。
でで虫も歩けば雨に当たる。捨てて浮かぶ瀬もあらんずるかと。(^^)
市堀
2012/06/13 18:40

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