再生への旅

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zoom RSS 禁足明けましておめでとう。

<<   作成日時 : 2012/07/11 04:11   >>

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雲水の翼のごとき夏衣 玉宗

大本山總持寺祖院専門僧堂の夏安居もあと少しとなった。中旬には祖院の観音祭りに合わせて門前町の「ごうらい祭り」。来月は旧盆が控えている。次から次へと行持が続き間断がない。それでも間もなく安居も解けて、それぞれ師寮寺へ他出したりして安居中の疲れを癒すことも出来るようになる。そのような制中明けと時を同じくするようにわが弟子孝宗も「禁足」と呼ばれる期間が解けたようだ。

百日間は托鉢以外は外出禁止。電話を掛けることも受けることもできない。手紙を書くことも受け取ることも出来ない。そのような「禁足期間」が過ぎたのである。それだけのことと云えばそれだけのことなのだが、それだけのことが修行の節目を一つクリアーした証でもある。彼の中にはある達成感が生れているに違いない。そこには昨日までと同じでありながらも違った風景が映っているだろう。

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この三カ月間、托鉢で何度か顔を合わせてはいるが、当然のことであるが会話らしい会話もしていない。師寮寺がすぐ目の前ということで特別扱いをされても本人が困るだろうし、そのような事をする僧堂でもない。それでいいのである。来月のお盆の補佐に合わせて一週間ほどの他出(帰省)を師匠の私から申し出ようと思っている。そんなこんなと彼と話したいことが山ほどある。明日にでも電話が掛ってくるだろうと心待ちにしている。

「禁足」とは「素」なる自己に戻る最初の作業なのかもしれない。一度、身も心も洗い直す。感性を純粋にする。それは誰よりも本人が実感していることであろう。

空っぽになることの充実感。

それもこれも己れむなしく、虚心に、無心に精進してきたからこそ叶えられた「清浄なる命の今」でもある。
昨日までがそうであったように、これからも同様の初心、心根、心操が欠かせない。どのような者でも大概、最初の百日は無心に修行出来るものだ。不思議なことに禁足明けを機に次第に「我」が出始める。それからが正念場であることを彼には肝に銘じてほしい。奢らず、卑屈にならず、どこまでも、いつも、真っ直ぐに今を生き切る。修行はそれが全てと言ってよい。私はそう思っている。







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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
身も捨てず浮かぶ瀬探す泥鰌鍋  よし
yoshiyoshi
2012/07/11 04:32
住職、おはようございます。
なぜハンカチじゃなくてハンケチなんだろう?
芥川龍之介みたい。
ハンケチって聞くとハンケツ見たいだなあと思うよ(ぼそっ
これ荒しじゃないから。
こっこ
2012/07/11 07:50
修行中のお坊さんの起居動作は美しいですね。坐禅も礼拝もすべての動作が感動的です。
その体の姿勢が内面を整えて行くという面があるのかも知れませんね。
くら
2012/07/11 09:08
yoshiyoshi樣。
泥鰌鍋腹に魂胆ありにけり 玉宗

こっこ樣。
なぜなんでしょうね。私にもよく解りませんが、ハンケチの方は私には品よく響いてくるのは本当です。それだけの理由で一句を作りました。

くら樣。
そうですね。身の「行」が「心」を調えるというのが禅の面目かもしれませんね。
市堀
2012/07/13 14:19

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