再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS こんな生き方もあるかな・その3「毎日が休日的な・・・」

<<   作成日時 : 2012/08/23 04:10   >>

トラックバック 0 / コメント 1

画像


托鉢の脚投げ出して雲の峰 玉宗


私のお坊さん人生三十年を越える歳月のなかで、「大休さん」というお名前のお坊さんに二度出くわしている。
最初は瑞応寺専門僧堂に初めての安居をしたときの先輩和尚さん。二度目は總持寺祖院に安居したとき、新到さんで上山してきた和尚さん。年令はお二人とも私より上であった。
どちらも一般在家の社会人として仕事をされながら参禅し、仏縁を戴いて出家された方だった。偶然のようにどちらのかたも人間としては苦労人の面影があるのだが、修行においては謙虚に、飄々と打ち込まれていたのが印象的であった。「一休」という名は、あの有名な「一休さん」に遠慮してなのか、これまでお会いしたことがない。

「大」と「一」の違いはあるのだがどちらも同じ「休」の様子である。「休」とは何か?何を「休する」のか?
「休」の反対は「忙」だろうか。「忙」という字は、心を亡くすと解釈するのが世の通例で、余り褒められた状態ではない。忙しさも限度を超えて、自己が仕事に振り回されたり、芯がぶれるようなことは好ましいことではない。要するに「妄想状態」ということだ。

さて、一般的に「休」は体を休め無為に過ごすことであり、充電期間とされる。それだけであれば仏道の話しとしても少しもの足りない。仏道は単なる身心ケアー、リフレッシュ術の話ではなかろう。生き方の姿勢を諭していると思いたい。

そのものになり切っている時、私は何かを忘れている。それはまるで、命が充実するために自らを空っぽにでもしているが如きである。或いは身も心も充実して余念の入る隙がないが如くである。フル回転している駒が静止しているみたいな「いのちの様子」。「休」とは一体になり切っている様子である。傍目には愚の如く、魯の如くに見える煩悩休止状態といってよい。「休」がそういうことであってみれば、それは決して損得で勘定できるようなものではない。

「忙しさ」が人を誤らせるのではない。ものごとと一つになり切れない今のあり方が問題なのではないか。私という命の真相は、忙しかろうが、そうでなかろうが、いつも「大」とも「一」とも云うべき絶対的な「今」を生きているには違いない。逆に云えば日常の私とは「休する」ことなき「妄想」や「余念」の虜になっているのではないか、といった反省があって然るべきである。
急ぐことも、怠けることも、追うことも、卑下することも、慢心することもない淡々とした命の戴き方。日々これ「煩悩休刊日」。あなたまかせの、仏様に身も心も委ねる、あるがままに、拘りもなく、ニュートラルな、身心を安らぎ、右往左往しない、充実した「知足の今」をただ生きる。これを易行というや難行と言うや。

二人の「大休さん」がその後どうのような生涯を過ごされているのか存知しないが、その「爽やかさ」が折に触れて思いだされるお坊さんではあった。






ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
休の反語は働くでいいのではないでしょうか。

働くが遊びと見ゆるアキアカネ  よし
yoshiyoshi
2012/08/23 07:32

コメントする help

ニックネーム
本 文
こんな生き方もあるかな・その3「毎日が休日的な・・・」 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる