再生への旅

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zoom RSS 生れたときから「終活」は始まっている?!

<<   作成日時 : 2012/08/05 04:08   >>

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生きてゆく力懐かし蝉の殻 玉宗


先日、夫人がボソッと呟いたものだ。

「私が死んだらお墓はどうなるのかなあ・・」

「死んだ後のことまで心配しなくてもいいよ。遺った者がなんとかするさ」

夫人の心配の真意が解りかねる人もおられることであろうから、少し説明を要する。
寺族というものの立場の危うさは以前にも指摘したことがあるように、生涯、住職を公私に亘って支え、補佐している存在なのではあるが、住職の地位に比べてお墓一つの処置をとっても不安定要素が消えない現状がある。自坊のような小さなお寺では墓地として使用できる用地も限られているし、住職の墓は優先的に確保しなければならないことは檀家共々自明の理として受け取られている。

それに比して寺族は一旦住職が亡くなり、後継者が絶えたり、血縁以外の住職が就任などした場合、代表役員の扶養者として当然の様に居座れるというものでもないのである。況や、そのようなケースでは寺族の墓をどこに設けるべきなのかといった問題が浮上してくる事態が少なくはない。夫人はそのような事態を懸念して心細い思いを抱いているのであろう。

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「終活」という言葉がある。就活、婚活、離活と共に、東日本大震災を機に「終活」もまた注目されているようだ。
「人生の終わりのための活動」の略であり、人間が人生の最期を迎えるにあたってするべきことを総括したことを意味する言葉らしい。例えば、生前のうちに自身のための葬儀や墓などの準備や、残された者が自身の財産の相続を円滑に進められるための計画を立てておくことだという。

諸行無常、何時来るともしれない親族や社会との別離。そのための心構え、身構え、物構え。そこには自己なき後の家族への思い遣りがあるのだろう。或いは身寄りのない一人暮らしの「人生の清算手続き」といったところか。死を迎えるの当たっての最後のこだわりと言ったら語弊があるだろうか。

葬儀に関しては名のある俳優が戒名を付けず、自分で読んだ御経を流し、お坊さんは要らないと言い切っていたのがテレビで放映されていた。その心理の根底には葬儀にお金を掛けたくないという生活事情とお坊さんを信頼できないという個人的信条事情にリンクしているのが感じられた。

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どのような臨終模様を予定しようが、それもこれも本人の生きざまの反映である。然し、死後の後始末や供養の在り方を死んでいくものだけの希望で左右できるものだろうか。又、遺族たちは遺族たちで死者を送る形への言い分はないのだろうかといらぬ心配をする。社会儀礼にしても宗教儀礼にしても亡くなって行く当人だけで気づきあげた人生でもあるまい。「死」という最後の幕引きでえさえ「いのち共にある」者の風景であるには違いないのだ。

経済的事情を考慮するなと言っているのではない。 死や死後さえ自分の思い通りになると勘違いしているのではないかとさえ思ってしまう。親が子供へ遺すものにもいろいろある。遺族への思い遣りの中に「経済的遺産」もあって当然であろうが、それと併せて「切れながらも繋がっているいのちの繋がり」といった「目に見えないが確かにある生き方」を遺すというのも「終活」の大事な項目として考慮したいものである。

そういうことが得心できるのであれば、人生いろいろ、死に様いろいろ、終活もいろいろであるが、思えば「いのちの繋がりを生きる歩み」といった「終活」は生まれたときから始まっているとも言えなくはない。









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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
蜩の夏惜しむごと鳴きにけり  よし
yoshiyoshi
2012/08/05 04:12
香水も指輪も不要寺を守る 酒井せつ子

       今朝の『朝日俳壇』稲畑汀子・選

2012/08/06 07:25
コメント有難うございます。
お寺で生きていることが愚痴にならないように心してやって行こうと思っています。合掌
市堀
2012/08/09 19:30

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