再生への旅

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zoom RSS 癖のある世界で功徳を積む

<<   作成日時 : 2012/09/29 04:26   >>

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身に入みて波打ち際に来てゐたり 玉宗

先日、とある七十歳半ばの信者さんが相談にのってほしいと夫婦でお寺にやって来た。
聞けば、御主人の妹になる方の「手癖の悪さ」に困り果てているのだと云う。俄かには信じられなかったのだが、小さい頃から「盗み癖」がついているらしく、七十才を過ぎた年になっても時々、実家である我が家にやってきては泊って行く。帰った後は必ず、なにがしかのものが無くなっている。それも一度や二度のことではなく、つい先日のお盆過ぎにもやって来て、奥さんの大事にしていたコートが無くなっていた。

県外に住んでいたのだが、今では夫も亡くし、一人住いをしている。近くに娘夫婦が暮らしているのだが、今回のことで娘に問い質したところ逆切れされた。娘にしてみれば、証拠もなく、いきなり母親を盗っ人呼ばわりされたのだから憤慨したのだろう。なんやかやと罵倒されたとも。主人は実の妹とはいえ流石に困り果てたらしく、ここに至ってお寺に駈けこんできたという次第だった。

本人に窃盗の意識があるのかないのか、痴呆の症状ではないかとも思ったが、そうでもないらしい。「窃盗」は癖になるという事を聞いたこともある。まして相手は肉親である。実家のものをわがもの顔に失敬することに鈍感、無神経になっているといった事もあり得る。相談に来た方も、ものを惜しむ気持ちや善意を傷つけられたという悔しさもあるのであろう。肉親であればこその寛容さと共に、肉親であればこその憎悪と云った感情も湧いているらしい。

相談に来られた夫婦は親の代からお寺にお参りを欠かさない信者さんである。お寺は興信所でもなければ、警察でも裁判所でも民生委員でもない。せっかくお寺に相談に来たのだから、欲を越えた解決法を諭して上げなければならないと、話を聞きながら感じていた。

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それにしてもである。欲の世界でどうにかしようたって切りがない。割り切れないのが世間の相場である。友達は選べるが兄弟姉妹は選べない。その気になれば訴えることもできよう。腹の虫が収まらず犯罪にエスカレートする可能性だってある。何が何でも理屈で割り切ろうとするところに無理が生じ、悪循環を齎す。それを六道輪廻と云う。どこまでも欲望を満たさんが故の話であろう。それでいいのかと信仰を試されているのだ。

身うちとは厄介と云えば厄介な存在であるが、一旦人生に行き詰れば、頼りにするのは肉親、身内である。
愛語を以って諌めても本人が肝に銘じるとは限らないが、手立てを尽くして付き合っていくに越したことはない。このような次第になったことも因縁である。人の良い相談者の御夫婦の善意を責めるのではないが、善意が相手に罪な事をさせてしまうといった事例はよくあることだ。正直も善意も過ぎれば元も子もなくなってしまう。正直も善意も相手との関係性の潤滑油としての「癖」であってほしいものだ。

件の妹さんには何度も「もの」を盗まれたという事だが、我が家や命を奪われた訳でもない。盗まれたものも他愛もないものと言えなくもない。小さい頃からの「癖」であるならば、哀れなものである。ものを盗みたくなる幼心の葛藤やストレスや闇があったのであろうとも思う。そのような妹を持ったことも今生の縁である。お互いにいづれは棺桶に入る身である。身も心も清浄にして土に還るというのが信仰を持った人間の志というものであろう。

相手の「癖」を変えようとしても徒労に終わるであろう。相手の「癖」との付き合い方を学ばなければ益のないことではなかろうか。

ものを盗まれたことも妹へ施してやっている布施行ではないか。私はそれを気休めとして言うのではなく、事実だと思っている。相談者自身が試されているのである。相談者が仏の世界で生きているのかどうか試されているのである。欲を越えたところで妹を赦してあげることができるかどうか。お釈迦様は前生で捨身供養をなされたと伝えられている。身を捨てて、心を捨てて、ものを捨てて、施して、浮かび、広がり、与えられる世界がある。

見方を変えるならば、盗み癖のある妹のお蔭で、本当の信仰を得る事が出来るかもしれない。選ばれない相手の存在を人生の宝として戴くことができるかどうか。宝を活かすことができるかどうか。施すことができるかどうか。お二人にとって妹が観音様と映る日が来ることを願わずにはいられなかった。

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一般に「無くて七癖、あって四十八癖」と云われている。生れて此の方、まっさらに命が様々な知恵や行動パターンを身や心に学習してきたことを、まあ「癖」と云っても間違いではあるまい。「生き方の癖」とでも言おうか。それは「それそのもの」としては善悪を越えた反応であろうが、人の世とは様々な関係の対応そのものである事を思えば、その「癖」がまた様々な「因果」を齎しているのが現実であろう。

人間の煩悩に纏わる様々な「癖」の中で生きて行くのがこの世のこの世たる所以。三界は三界の如くに見て、聞いて、生きる。余所に仏道の世界を求めるのではない。人生とは一筋縄ではいかないが、それは味気のないものではない。全てが命の実相と捉えたとき、そこには自ずから帰家隠坐すべき当處や地平が見えて来る筈だ。

お寺の人生相談、といったこともそのような大乗に則った指標を指し示して挙げれるようにしたいものであると常々心している次第である。





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コメント(2件)

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武蔵野は雨堪えたり緋連雀  よし
yoshiyoshi
2012/09/29 08:47
一般凡人が、こういう相談を持ちかけられたらおろおろするばかりではないかと思われるところですが、お坊さんらしく要領を得たお答に感心致しました。かと言って我々が同じように答えたとしても相手は全く聞き入れないでしょう。その方はよくぞ玉宗さまに相談されたと思います。
花てぼ
2012/09/29 21:03

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