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zoom RSS 「随流去」いのち真っ直ぐ生きる

<<   作成日時 : 2012/10/01 03:45   >>

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愚痴始まる釣瓶落としの迅さより 玉宗


来月には57年の歳月を生きてたことになる筈の私であるが、振り返れば当に「あっという間」であり、もっと実感に即して言えば、「あってなきが如く」ではある。いやもっと正直に云えば「無いに等しい」とも云えなくはない。然し、掛け替えのない命の今を積み重ねてきた最前線、因果の果てのこのあり様の今の命であることは先ず間違いないし、否定してもどうなるものでもない。

命とはつくづく「今の事実」の積み重ねであることに思い至り、実感するのである。誤魔化しが利かない命の積み重ね。「永遠」といったことも、限りある命にとって、それは一体何の事だ、と問い質したくなるほどだ。切れながらも繋がっている、連なりながら切れている。

止まることをしない諸行無常の命。過去と言うも、未来と言うも、現在と言うも、一体、何を言ったことになるというのだろうか。去って行った日々の私とは、既に死んでいった命に等しい。未だ来ない明日の私とは畢竟、幻であり、妄想に過ぎない。命は常に更新されていている。四大が離合集散を繰り返している。新陳代謝している。細胞分裂し、消滅している。死とは形を変えた四大の在り様であろう。

「人生とは死ぬ練習だ」みたいなことを述べていたのはクリスチャンでもあった亀井勝一郎であっただろうか。それは「いのちとは今の事実のこと」「永遠とは今の事実のこと」と語っているに等しい。生きている限り「死」も「永遠」も観念の域を出ない。どんなに惜しんでも、命はそのような思いもろとも移り流れて行く。そしてまた、流れと見えるのはひとときの見解に過ぎない。どんな立派な見解、悟り、知見、迷いを得ても、生きている今の端的な事実から逃れようもない。それこそが諸行無常の真骨頂ではないか。

「随流去」とは、流れのままに、いのちのままに、あるがままに、それは逃れられない今のいのち真っ直ぐ生きている様子のことである。それ以外の何をいのちに期待できるというのだろう人間は。







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吉祥草悩みも聞かで頷きぬ  よし
yoshiyoshi
2012/10/01 08:14

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