再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 今が臨終、今が誕生

<<   作成日時 : 2012/12/22 05:01   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


底冷えの街に花屋の灯が点り 玉宗


今年もあと幾つと数えるような時期になった。
光陰矢の如し。なにほどのことを達成することもなく一年が窮まらんとしている。大晦日が1年の終りであることのように、人生の大晦日が解っていたらどんな生き方をするだろうかと気になった。末期の眼に映るこの世とはどんなにか切なく美しいものだろうかと思うことがよくある。二度と目にすることがない今生の風景。風。光り。闇。そして人間。一期一会の眼光。なんのことはない、そのような末期の眼にして、生れ立ての眼こそがお坊さんに求められていることに気付く。

母の胎内に生を享けてこの世に一生を過ごし、死によって私という仮の命は天地に四大分離して拡散していく。振り返れば人生はあっという間、無きに等しいというのが偽らざる実感である。後悔の立つの立たぬもない。私の都合など一向に介さない時光の速さ。何事かを成さんとすれば一生は幻影のごとく儚く、無為徒食して生きるに一生は牢獄のごとき月日である。目を晦まし、自己を晦まして、他を晦まして生きて来たような有り様ではにのかと忸怩たる思いに堪えられない。

時間とは私の命そのものであるという。未来とは未だ来らざる私の命のことであり、過去とは既に過ぎ去った私の命のこと。それ以外のどこにも時間というものはないのだと。自己が避けて通れる客観的時間といったものは存在しない。今、ここでの私の生き方が時間の正体であり、世界と一体である私の命の正体であるということ。

私の生老病死、私の煩悩、私の発心修行菩提涅槃が私の命であり、時間である。誤魔化しようがないそのような系の中で時間はどんなに惜しんでも先へ進む。命は死という到達点を目指して余念がない様にも見えてくる。私の命はどんな色を帯びて光り輝いているだろうか。流れゆくわが光陰の色調は本人である私の預かり知らないところだが、出来ることなら前世を共にし、今生を共にし、来世を共にする者らの眼に美しく見留められてほしいと願っている。

「今が臨終、今が誕生」

このようなことを云う禅者の眼は末期の眼にして汚れなき今を見据えている裸眼以外の何物でもないだろう。矢の如き光陰、光陰の如き命。光り輝きながら流れゆく、ぶれない生き方が求められている。




ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
今が臨終、今が誕生 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる