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zoom RSS 「お寺という格差社会」についての考察・その2「格差と知足」

<<   作成日時 : 2013/01/15 05:33   >>

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おつぱいに似たる山より冬霞 玉宗

私が「お寺の格差」を言い出したのには今の境遇を真っ直ぐに、余所見をせずに戴くことが出来ないでいると云う拭き難い負け犬本性があるからである。自分が確かに聖人ではないと言い切れる所以の一つがここにもある。ここは反省の弁と捉えていただいてもいい。殊更「お寺の」と括ることもないのであるが、世間から落ちこぼれただけではなく、お寺の世界からも落ちこぼれたかのような私のような人間が、社会一般の「格差」を云々することへの一種の照れ隠しなのかもしれない。どちらにしても、お粗末ながらも「格差」に負けないで生きていこうとはしているようなのである。

さて、「格差」とはどこまでも人為的なものなのであろうか。「格差」と雖も、なるべくしてそうなったのだと指摘されれば逃れる余地があるのかないのか。「格差」の因果関係といったものを人為の範囲内で済ますならば、仏道も要らないようにも思える。というより、「格差解消」の守備範囲と云ったものがあろう。政治や行政と同じ地平の「対応」を仏道に求めていいものだろうか。お坊さんにはお坊さんの「格差解消法」といったものがある。

「格差」出現の向うに私意や作為を越えた働きといったものを感じることができないか。無私なる世界といったもの、謙虚にならざるを得ない、私がお手上げにならざるを得ない、そんな領域があってもそう可笑しいことでもなかろうとは思うのだが。「格差」の存在、それは私にとってその「有無」が問題となる限りに於いて提起できる筋合いのもののようにも見える。

「格差」の中で満足して生きることもできよう。「格差」の中で不足を抱きながら生きることもできよう。「格差の中」でその過剰を隠ぺいすることもできよう。それは自己の命の戴き方を試しているに等しい。
他者をとやかく言うのではなく、どう考えても、或いは思考を停止しても、私は私に見合った「格差」の戴き方をしている。私は私の器で「格差」を料理している。私はどこまでも私の欲望や覚醒や絶望に見合った世界を生きている。私はどこまでも「私のいのち」の話しかできないのである。

ということで、確信を持って言うのであるが、誰が私に代って私のいのちを「知足」するだろうか。私は誰一人として他者の「知足」を戴くことはできない。「知足」とは生き方であり、いのちの実相でもあると心得たい。それはどこまでも諸行無常を生き切る私一人の、いのち限りの話である。いのちは本来的に「平等」ではない。「平均化」できるものでもないし、してはならないものである。いのちはどこまで行っても甘んじて受け入れるしかない代物である。

このように言っても私は「格差」を肯定している訳でも、或いは行政による「格差解消」「機会平等・平均化」を否定しているのではない。捉えどころを間違えれば身も蓋もない、人間一人ひとりの、お坊さん一人一人の「格差」の人生へ立ち向かう姿勢、「知足」なるいのちの戴き方を言いたいのである。  <つづく>

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「白鳥」

さびしらの首を差し出し白鳥来

白鳥のうらさびしさが飛んでをり

白鳥のなまめかしさが水の上

白鳥の気高き流浪湖に集ふ

白鳥が嘘のやうにも目の前に

抜き難き白鳥にある死の匂ひ

白鳥の鬱々として豊満たり

白鳥の黒き裸眼に映るもの

もしかして白鳥盲目かもしれず

正夢の如く白鳥遥かなり

白鳥を浮かべ水面のしづまりぬ

白鳥の死出の旅路のしづけさよ

わが醜の影を白鳥遠ざかる



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酌む酒もひとりは寂し雪の夜  よし
yoshiyoshi
2013/01/15 10:12

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