再生への旅

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zoom RSS 今日の諸行無常・いのちのあとさき

<<   作成日時 : 2013/03/13 04:14   >>

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亀でさへ憚りながら鳴く夜かな 玉宗

今日は興禅寺の涅槃会である。
昨日は一日、檀信徒とともに涅槃団子作り作務に勤しみ、そして楽しいひとときを過ごした。涅槃団子の作り手も、私が住職になって20余年経ち様子が変わってしまった。相寄る檀信徒がみなそれなりに如実に年老いていることを知らされる昨今である。特にこの数年その感が強いのは、私自身が若くない事を実感している賜物であるような気がしてならない。興禅寺に入った当時の世話好きな檀家さんたちの面影が懐かしく思い出される。この間、葬儀の導師をして引導を渡した方々は五十人近い数になろうとしている。

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出会いと別れの繰り返し、それこそが人生であると何度も何度も肝に銘じさせられる。人と出会い、人と別れ、自己と出会い、自己と別れ、生死と出会い、生死と別れ、生老病死と出会い、生老病死と別れ・・・。私という鈍い人間でさえ、私自身の諸行無常を目の当たりにせざるを得ないのである。

能登半島地震に被災して人生の有為転変をまたもや体験する事になったのも要因しているだろう。人生を何度もシャッフルし直すというのも、そうたびたび出来るものでもない。ときに、縁側に腰を降ろして人生の来し方行く末を眺望し直したいといった気分にも自ずからなるというものだ。

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私の天命、寿命といったものがあることを否定のしようもない。今の私はその天命という到達点のどの辺なのだろうかと妄想することがある。いつまでも闇雲に生きて言い訳がない。跡を知り、先を慎むといった姿勢もあってしかるべきであろう。去る鳥跡を汚さずということもある。

それにしても人生のどの辺なのかと云った希望的観測も当てにはならない。一寸先は闇。これは動かし難い事実である。仏道はそのような現実を「一寸前の光り」として自己を照らし、世界を照らして生き抜くといったことであろうと思っている。いのちのあとさき、といったことを言えば、畢竟空しいことに変わりはないが、空しいままにそれでいい、といったわたくしの無いいのちの深さを信じている。

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「三回忌」

みちのくの春や名ばかり海ひろがる

鳥雲に親を失くした子供たち

怖ろしき春の夢さへ三回忌

仏壇の奥の方より囀れる

面影の切なき春を灯しけり

みちのくを思うて亀の鳴く方へ

亀鳴くや冥途へつづく耳の穴

押し入れに泣けり菜の花まぶしくて

烙印を捺されて梅を見ることに

空といふかんばせ木の芽風よぎる





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あ、だんご!
花てぼ
2013/03/13 09:15

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