再生への旅

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zoom RSS 自己への信仰

<<   作成日時 : 2013/03/22 05:10   >>

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膝揃へ箸をそろへて鳥雲に 玉宗

宗教に対する社会通念が信仰の希薄化と既成仏教教団に対する批判が顕著であるという指摘がされ久しい。

「葬式はいらない」「戒名は自分で決める」等の著作が注目を集め、葬儀に関しても直葬という新たな言葉も耳にするようになった。儀式を省き死の床から直に火葬に付し、お骨は各々思い思いにということらしく、そのような扱いを受けねばならない方も気の毒であり、そうせざるを得ない事情も理解を越えて哀れれではある。社会風潮という風に押されての選択でもあろう。そこにある経済的考慮優先、一事が万事金銭中心の潤いのない生き方。個人の都合もあろうが社会的力学の中で流されているといった実体もあろう。

仏道は人間釈尊の修行、成道、涅槃をあるべき本来の御いのちの風景として戴く実践である。認識以前にこの世に送り出された存在で私どもであるが、それにもかかわらず認識以前を否定するがごとくの生き方が中心となり、欲望界隈に血迷っていると言って過言ではあるまい。自己を省みてつくづくそう思う。

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仏道とはある意味人間を越えることであろう。人間を超えるとは如何なることか。

私は一人で生まれてきて一人で死んでいく、代替えのきかない孤独な存在であるにもかかわらず反面一人では決して生まれてくることも生きていくこともできない、多くの限りあるいのちに支えられた存在である。閉ざされながらも開かれている系、矛盾そのもののいのち。生きている「今」も尚私のいのちは「認識以前」を生き続けているということ。そのような自己本来のいのちへに目覚め、信仰を持ち生きること。それこそが人間を越え、欲望を越え、人間らしさを越えることであり、いのち生きる存在意義ではないのか。

自我と云う上っ面の自己主張にのみ存在意義があるかのような現代社会。迷走する社会。迷走する自己。それは畢竟見当違いな自己認識の風景ではないのか。
真の自己を見極め、決着することが釈尊の生涯だったのであるとということ。自己への信仰、それは盲目的な自己主張ではなく、執着とは程遠い自己の在り様である。自己への信仰、それはどのような境涯にあってもぶれない認識以前以後の自己の正体を獲得することでなければならない。

自己を知り、信に生きること。仏道に於いて、それは当に生きるものの定まれる習いであり、人生の一大事因縁と云われる所以である。

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「裏表」

朧夜の墓石のごとき思ひあり

春分を日向のごとく生きてをり

春分のそれはおほきな臍のごま

亀の声墓を覗けばこだまして

鷹鳩と化して小僧に蹴散らされ

葬送の列へ初蝶入りたがる

月光にとろりとろりと花樒

春の山から墨染の袖ひらひらと

パンジーの裏が表であるやうな

嘘ついてかなしき喇叭水仙で

けふもまた春の鵙来て囃すのみ

恋人のやうに雲来る花菜風

底抜けの空へぶらんこ漕ぎだしぬ



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