再生への旅

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zoom RSS 寄居虫の弁明

<<   作成日時 : 2013/04/16 04:23   >>

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侘助やものを思へと花傾げ 玉宗


嘗て、能登半島地震に被災した折、お寺は誰のものか、お寺とは何なのかといったことに改めて自問自答させられた機縁があった。つまるところ、お寺は檀家のものでも、住職のものでも、誰のものでもなく、敢えて言うならば「仏道の志しあるもの」のためのものであるとでも言おうか。いづれにしてもそれは「仏道という生き方」と共にあることによって意義を持つものと再認識させられたものである。

再生への道。それは私は私を否定し切れなかった、それだけのことである。住職とは世過ぎの為の手段であるか?そうであるとも言えるが、腐ってもお寺であり、仏弟子である。道を求め、道を歩もうという「生き方」のひとつの「典型」を世に差し出している。伽藍は本来そのような目的のために解放され、ときに閉ざされる結界でもあろう。単なる公民館や、まして葬祭業施設、娯楽施設であろう訳がない。

地震で全壊して、私には再建を断念することもできた。檀家をよそのお寺へ移すこともできた。お坊さんを辞めることもできた。人並にどんな可能性だってあったのだ。
結果として私は伽藍再建の道を歩み出した。仏弟子として生きると覚悟していた私にとって、伽藍のあるなしは二の次ではあるが、生き方の芯とは二があっての一であることもまた否定できないのであった。

仏弟子と雖も霞を喰って生きてはいけないし、且つまた、志しがなくて生きていけるものでもない。いのち生きるの条件に二の次も三の次もないのである。おそらく四の五の言いたがる分別とは愚痴や妄想に過ぎない。私は私という内実に見合った殻に宿を借りている寄居虫のようなものだ。裸で生きて行けない事はないが、恐らくそれは死を意味しているであろう。

理に偏り、或いは事に偏る愚かさ。実に拘り、仮に拘る愚かさ。事理や虚実を越えた今のいのちの事実に目を見開き、受け入れ、おのれ空しく自己の力を尽くことの容易なさ。おそらくそれが生きることの本義なのではなかろうか。
寄居虫は貝を背負っているからこそ、その面目を果たせる。殻だけが一人歩きすることも、心があれば事が済むといったこともあり得ないと知るべきである。

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「高さ」

鴉の巣癪に障れる高さあり

啄木忌雲の腸見て過ごし

いたどりやつれなき風が吹くばかり

潮満ちて石蓴の森のゆらめきぬ

朝寝よりの瘡蓋のごと出て来たる

鶯や断頭台の高さより

ぶらんこや空の深さに慄きぬ

あかつきの粥の熱さや忘れ霜

はこべらを喰うて許してくれるなら

われもまたよそ者であり葱坊主

弁解の迫りし霜の名残りかな

なきがらや忘れかねたる霜の朝

亀鳴くと信じ五十も半ば過ぎ

褒められて悪い気はせぬ蛙かな



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