再生への旅

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zoom RSS 自己の主人公は欲望ではない・隠徳作務

<<   作成日時 : 2013/04/18 04:05   >>

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囀りや空を汀と思へとや 玉宗

僧堂によっては既に夏安居に入ったところもある。
第一座である首座を始めとして、雲水さん達には「隠徳」を積む機会でもある。特に、首座和尚などは誰よりも早く起床し、振鈴し、一日の始まりを告げる役目や、山内の就寝後に東司掃除をしたりとか、人の耳目に触れぬところで徳を積むことが試される。

人が見ていようが見ていまいが、毀誉褒貶の埒外に逍遥と、仏道として為すべ事は為し、為さざるべきことは為さない。仏道の行持の面目とはそれだけのことである。あたり前のことをあたり前に戴き、施す。
それは、理解という頭の範疇で片づく筋合いのものでない。肝にも身にも骨にも脚下にも銘じること。それこそ仏祖の身心、安居の全身、身心脱落脱落身心とも言うのである。

本来、隠顕存没に関わらない仏法の在り様ではあるが、実相を身心に肯うには手間暇掛ると云うのが人間の実際である。欲望とは様々に手を変え品を変えてわが身、わが心に立ち現われる。自己の主人公は欲望ではないことに覚醒しなければならない。それは仏弟子の宿命である。本来の自己は那辺にあるのか?そのためにも徹底的に自己を無にし、隠し切るといった捨身の行を学ぶのである。

世間では自己を膨張させることに躍起になる節があるが、出世間では自己を忘れる機縁がなければ仏道とは言えないのである。私がいてもいなくてもなんともない世界がある。おれがおれがとか、お前がお前がとかといった界隈に右往左往していていいのかと問われているということだ。

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「花筏」

雪柳投げ出すやうに枝垂れて

八重桜腹がもたれてせうがない

ひとひらの蝶が舞ひ込む油断あり

もしかして蝶の悪意の美しさ

悉く夢の果てなる花筏

初蝶の行方も知れぬ気安さよ

学び舎を抱へし山の笑ひかな

花屑の吸ひこまれゆく鯉の口

見下げをる燕の貌に覚えあり

八重桜風に遅れてゆれ始む

なかぞらに八重の花房浮かびをり

蝶が来て柱時計の捩子を巻く

蝶が来てときどき母を狂はする

さざなみの色ありとせば花筏

白といふ悼み湛えし椿かな

紅といふ闇を晒せし椿かな

うすぎぬを八重となしたる花の色




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