再生への旅

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zoom RSS 諸行無常の声と姿と

<<   作成日時 : 2013/04/19 05:02   >>

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たもとほる影はさびしき椿かな 玉宗

歳時記には多くの季語季題が載せられている。
春の部にも、「山笑う」とか「亀鳴く」「蚯蚓鳴く」「田螺鳴く」とか常識では俄かに受け入れ難い季語がある。俳人とは口から出まかせを言うものだと思われる方もいるのだろうか。「山笑う」は春の山の木の芽や草木の綻び始め、彩り始めた様子の自然観察からの形容であろう。ほんのりと穏やかに、如何にも微笑んでいるといった風情。それは大笑いや哄笑ではない。まして嘲笑でもない。知的風刺、諧謔の要素もあろうが、どこまでも五感を働かせての地理や自然への己を無にした存問なのである。

「亀鳴く」などの季語も基本的には情緒的な表現であり、詩語であることを忘れたくない。実際には鳴かない亀や田螺が池や田圃で蠢いている頃の春の情緒、といったものがある。それを如何にも俳諧的な季語で以って詠う。季語もそうだだが、「俳諧」には「常識」へのアンチテーゼみたいなところがある。その醍醐味の一つは「いのちのあたらしみ」にあるといってよかろう。

そしてそれは「禅」に於いてもまた「分別」を越えるということでは似たような趣きがないことはない。

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仏法の話をしよう。

実際のところ「山」は「笑ったり笑わなかったり」するのだろうか?亀は「鳴いたり、鳴かなかったり」するのだろうか?私に言わせれば「山」が「笑う」と言って一向に差し支えないと思っている。笑いもすれば眠りもする。亀も鳴くし、田螺も鳴く。蚯蚓も守宮も、空も海も雲も水も、山河大地も、石も露柱も、生も死も、鳴いたり笑ったりする。
山は笑うだけではない。「諸行無常」という「歩み」さえするのである。「山」は「諸行無常」という「説教」さえするのである。「山」という修行、菩提、涅槃、生死、無情説法がある。世界が一体である様子がある。

様々な諸行無常の声と姿。それを聞きわけ、見分けることは俳人だけの特権ではない。否、それは特権といったものではなく、まぎれもない仏法の様子を語る「経文」である。そのものの様子。自己の面目。すくなくとも私にとってそれは今といういのちの事実を語る掛け替えのない方便、月を差す指であり、夢の中で説く夢の様子といったものである。

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人はいのちの実相を言うことができるのか。ことばとは何か?
それは人のいのちに影日向なす感性そのもである。それは月を差す指ともなり、月を支える手のひらともなり、月を塞げる雲ともなろう。

「山笑う」それもまた「経文」であると言って差支えないと私は思っている。
情緒的話だけではない。禅では絵に描いた餅でさえ「食べれる」のである。「経文」という「画餅」で腹が膨れるような大力量の鉄漢雲水が期待されている。雲を耕し、月を釣る平常心。そのような「経」に生きる禅の文脈がある。そのような「いのち」の文脈がある。仏道の歩み、進歩退歩がある。風情がある。仏道の生死がある。

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「椿」

大の字に空見てをれば熊ん蜂

唸りつゝ雲より蜂の出て来たる

脚垂れてあしなが蜂が降りてくる

落花てふあるかなきかを掃き出せる

口ごもるほどの飲食花疲れ

たもとほる影はさびしき椿かな

伯母といふ腰の重たきのどけさよ

帰省して田螺の鳴くを見て過ごし

椿落ちほどなく毀れ始めけり

椿手に取れば滴をこぼしけり

遠へ向く花のかんばせ仏生会

代田掻くさなかの雨となりにけり

笹舟を浮かべてゐたる代田かな

花屑を浮かべて代田波寄する



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