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zoom RSS 言葉への感性・「のと里山海道」に関連して

<<   作成日時 : 2013/04/03 01:44   >>

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春空へ寡黙に鍬をふるばかり 玉宗

昨日は畑作務に汗を流した。十本ほどの畝の土に堆肥を混ぜ、篩いに掛けた。今年から野菜ではなく、花畑にしようかと未だに迷っている。店頭に立って見て花種や野菜種を見て決めようと思っている。出たとこ勝負。その時のインスピレーションで野菜か花かにしよう。

畑はお寺の裏庭にあるのだが、そのすぐ脇に桜の木がある。
まだ蕾であるがあと一週間もしないうちに開花しそうである。金沢ではとっくに咲いており、もう散るのではないかと言う噂も耳にした。おなじ石川県内でも北へ車で二時間走ると桜前線の足並みも違ってくるのを実感する。その桜の木の枝を見ると、例年になく花のつぼみが少ない。みすぼらしいほどである。鷽が花芽を食べたのだろうという人もいる。それにしても随分と喰い荒らしたものだ。鷽だけが要因とも思えない。今年は花のつぼみが少ない年廻りでもあったのだろう。

その能登半島を縦断する有料道路が先月末から無料になった。「のと里山海道」だそうである。能登の里山、里海が世界農業遺産になった契機に、新幹線も金沢までくる近い将来を見越しての対応なのであろう。それにしてもなぜ「能登」ではなく「のと」なのだろう。地名の由来を解き明かすヒントが漢字表記にも隠されている筈であるが、私などのようなへそ曲がりは、こうした「ひらがな表記」には行政の行きすぎた配慮といったものが感じられる。だれでも読めるようにということなのかもしれないが、まさか、能登人の識字率が低いわけでもあるまい。「NOTO」よりはましかもしれないが、五十歩百歩という感じがしないでもない。そういえば「里山」を「りさん」と読んだ人がいたとか。「のとりさんかいどう」ということになる。漢字に変換すれば「能登離散怪童」ともなりかねない。

まあ、それは冗談ではあるが、言葉は耳から入るだけではない、目で見ることもあるのが実際のところだろう。昔は口伝えの文化だったなどと今更言ってみても始まらない。
ことほど左様に、政治経済産業、文化宗教全般に亘って、「言葉」への感性が鈍くなっているのだろうかと思わないでない。鈍いと言って語弊があるなら、異質になったのだろうか。「情報化社会」と言われて久しくなったが、社会は情報そのものであるとも言えよう。それは古代から現代まで通底する人間の条件だ。その情報伝達の手段が時代と共に変わった。伝達手段の変化は情報そのもの質をも変えてしまうのだろうか。「情報の質」、つまり「理解し合う人間性」といったようなことだ。日本人だけではない、地球に住む人間が限りなく「宇宙人化」している途上にあるように見えることがある。人間同士がますます理解し合えなくなりつつある社会。それは自然との共生を忘れた人間の側面を見せつけている様にも思える。奇しく「世界農業遺産」に認定された能登の自然である。観光、経済優先の対応ばかりに気を配っていては、自然だけではない、能登の人間性そのものの変質という、とんでもないしっぺ返しを食らいはせぬかと要らぬ心配をしたくなる。

道路表記からとんでもない妄想に広がってしまった。目と耳の一方に偏するのではなく、五感を通じて言葉に共鳴するバランスのとれた感性でありたいものだと思ったことである。言葉は命の光りともなり、影ともなる。
ひらたく言えば、能登の山河大地がそうであるように、自然な人間でありたいということだ。それこそが能登の魅力でもあろう。

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「嘘」

春空へ寡黙に鍬をふるばかり

耕人のいつしか遠ちへ流されて

大海を望める棚田耕せり

つぐなひのごとくに春を耕せり

人混みの中の憂鬱万愚節

春窮や鳥もかよはぬ番屋跡

叔父といふ父とはちがふ春愁ひ

花冷えやもの言ふ自動販売機

三鬼の忌上手に嘘をつく日かな

詩を解せぬ妻に叱られ連翹忌




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