再生への旅

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zoom RSS 身を捨ててこそ

<<   作成日時 : 2013/07/23 04:51   >>

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絶望に何かが足らぬ端居かな 玉宗


生ぜしも独りなり

死するも独りなり

されば人と共に住するも独りなり


一遍上人のお言葉である。

いのちの実相。それは自己ぎりの世界である。
「自己」とは何か?!

いのち、それは孤独なものではあるが孤立しているのではない。存在、そのものが既に「縁」という「条件下」の代物である。それと共に、抓れば痛いのは私自身であり、だれも私に代って痛がったり、喜怒哀楽したり、諸行無常してはくれない。そのような絶対的断絶のいのちを生きているのも事実である。
世界と繋がりながら切れているいのち。一遍上人の言葉はそのような不可思議ないのちを生きている人間の、執着なく生きる覚悟を語っていよう。

誤解を恐れず言えば、生きていることに「絶望」するのも「執着」の為せる業である。私は高みからものを申しているのではない。私自身の中にある執着心の諸相を省みての結論である。人は執着の果てに他者ばかりではなく、自己を傷つけ、自己を亡き者にさえすることが出来る。なんという悲劇!なんという喜劇!

世に「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という。これは気休めではなかろう。人が生きる現実の側面を言い得ている。本来、なんともないいのちを生きていることに目覚めてみれば、執着するべき「わたし」とは如何にもあやふやで、根拠が薄く、取るに足らない、思い通りにならない、予想外なる、虚しい代物である。それは確かにいのちの実相の一面である。

それと共に、というか、そうであるからこそ、いのちとは「わたしを越えたなにか」と、共にあり、なにかと一体なのであり、なにかの一部である、といって差支えない代物である証左ではないのか。自己を徹底的に虚しくするならばそういうことになりはしないか。自己を虚しくする。それは理屈ではない。いのちがいのちを肯う、自得の領域の話である。

私がいてもいなくてもなんともない、そんな謂れのない、有難く、一方的ないのちを戴いている訳だ。生きる目的。それは「わたし」の執着の中にはない。いのちそのものが「いきる」という目的そのものとして働いている。「わたし」に出来ること。それは、そんないのちを「なぶらない」「捻じ曲げない」といった戴き方をするくらいなものであろう。それをしも「信仰」とは言いたい。それをしも「人生の一大事」であると言いたい。


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