再生への旅

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zoom RSS 山頭火との出会い

<<   作成日時 : 2013/09/14 03:51   >>

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曼珠沙華振り向くたびに咲いてけり 玉宗


言うまでもないことだが、「山頭火との出会い」とは正確には「山頭火の作品世界との出会い」ということである。
実を言うと、それは私が出家するときとほぼ重なっている。北海道から出てきて金子兜太先生との出会いがあり、生涯の恩師となる。金子兜太は俳句の師だけではなく、人生の岐路に立ち合ってくれた人物でもある。

先生の廻りをうろついているうちに「山頭火」や「一茶」に関する先生の著作に目が触れることになる。特に「山頭火」の世界は人生に迷っていた私の感性に共鳴したのである。今から思えばそれは出家への助走であったのかもしれない。

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大正昭和にかけての自由律口語俳句の寵児でもあった種田山頭火。
放哉を「暗・静」とするなら、山頭火は「明・動」といった句の細みがある。作品はそれなりにどちらも嫌悪を催すということはなく面白い。が、山頭火の方がまだ魂が救われるようなところがある。私などには放哉には人間の匂いが感じられない。同じように悲惨な生涯と言えないこともないが、少なくとも山頭火の晩年はまだ人生の悲喜劇に通じる人間らしさがあった。

山頭火の俳句を知ったのは、彼の生きざまを知ったのとほぼ同時であったと言っていい。その後ろ向きの人生、そして作品に妙に惹かれた。「人間たらし」とも言えるその言動。人を人とも思わない、その精神の弱さと肉体の厚かましさ、馬鹿正直、自然と人間への甘え、恐れ等々。彼の半生の境涯から察するにその人生は暗いものである。幼少期の原体験が大人になっても尾を引いているような遣り切れなさがある。

作品や作者の言動に感じられる、その浮遊感、漂泊感。然しながら、そこには後ろを向きつつも、まだ前へ向かって歩いているような異質な明るさ、呑気さ、図々しさがある。 あれはいったい何なのだろうかとずっと不思議に思っていた。自由律という、捉えどころがない自己の「形」、「姿勢」を保ち続けさせたものとは何か。漂泊を突き動かし、定住を拒んだものが何なのか。彼自身もそれが何なのか分からぬまま、そのような自分を持て余していたのである。彼自身の思いを越えてやってくる肉体の内在律。

それでも山頭火には放哉に比べてまだ、他者の存在が見え隠れする。放哉にはそれがない。彼は遂に自己を解放することが出来なかったのではないか?どちらも救われない魂と言っていいものだが、見落としてはならないのは、山頭火の句の明るさ、それは、曲がりなりにも僧形に託つ「乞食」という「歩く・行」によって支えられていたのではないかということだ。山頭火の作品には肉体の響き、声があると思う。

彼の「行」は宗教的本来の「行」とは似て非なるものかもしれないが、「歩く」ということで言うならば、それは正しく具体的な、端的な、この世に足を下ろした事実であるには違いなかろう。いのちの、生きることの「向日性」は良くも悪くも、そのようにして授かるものだということではなかろうか。山頭火自身もその辺を弁えていた風がある。

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うしろ姿のしぐれてゆくか

分け入っても分け入っても青い山

炎天をいただいて乞ひ歩く

鉄鉢の中へも霰

ふとめざめたらなみだがこぼれてゐた

春の山からころころ石ころ

母ようどんそなへてわたくしもいただきます

へうへうとして水を味ふ

もりもりもりあがる雲へ歩む



定型へ鎮まらんとする、溢れるような、無防備な感性がある。このような取るに足らない人間らしさを敬遠する人もいることだろう。しかし、人生のすべてが理屈や正義や損得で割り切れるものではない。どうしようもない命の、わり切れなさに涙を流し、迷い、悔み、笑い、励まされている。それも厳然とした、云われなき人間の実相ではないのか。

結果として、山頭火の生きざまを知らないで句を鑑賞するにしろ、知っていて鑑賞するにしろ、それは大した問題ではなかろう。現代でも山頭火のような人間たらしがどこかで生きているであろう。そして彼らのような人間が生き難い、世知辛い世の中になっているのではなかろうかと思ったりする。

いずれにしても「作品」という言魂との出会いにおける私の感性が試されている。山頭火の作品には煩悩の全てをさらけ出そうとしている人間の切なさとやりきれなさと図々しさと、そして明るさがある。私は山頭火の作品は嫌いではないが、目の前に彼のような人物がいたら敬遠するかもしれない。ことほど左様に、作品は作者を離れて独り歩きする。後ろ姿のしぐれてゆくのも、炎天を乞い頂いて歩くのも、生身の山頭火であって山頭火ではない。それはもしかしたら山頭火を戴いて生きている私自身である可能性も否定できないのである。


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「虫しぐれ」

梨喰うて溜飲少し下げにけり

かろきものかさねて秋の昼寝かな

無花果の熟れていよいよタブーなし

眠くなる子の手を落つるどんぐりが

栗飯の栗ばかり喰ふ子供かな

扇置く儚きことに身を入れて

先ず仰ぐ降り立つ駅の天の川

面影のうしろ姿や秋の風

垂乳根のふところ深き野分かな

われなくて色なき風のかろさかな

虫しぐれ光陰淡くありにけり




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内 容 ニックネーム/日時
 こんにちは、はじめてです。山頭火の記事におもわずひきこまれました。金子兜太先生を通じて、山頭火を知られた由、私は紀野一義(ひろさちや)の著作で山頭火、坂村真民などを知りました。誰々を通じて作品を知る、つまり入り方というのもかなり大事な気がします。
破滅形のスタイルでなければ、その人にはつかめない美というものがある。そんなことを感じます。
屋形船
2013/10/07 12:35

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