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zoom RSS 禅問答ってなに?!

<<   作成日時 : 2013/09/16 04:15   >>

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猿酒に溺れし僧の悲鳴かな 玉宗

12日から4日間に亘り大本山總持寺祖院にて行われていた御征忌法要が無事円成した。
最終日の昨日は大雨で参詣者も例年より少な目であったが、最後の法要である「対真上堂」が行われた。山内の修行僧が全員、師家である禅師樣へ問答を仕掛けるというもの。
それぞれ思うところを引っ提げて大声で師家へ迫ってゆく。

「如何なるかこれ教外別伝!」
「如何なるかこれ仏道修行!」

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敢えて「?」ではなく「!」としたのには考えがあってのこと。
修行者はそれぞれ「問い」を抱えているのであるが、禅に於いて「?」はそのまま「!」であるといったことがある。問処に答あり。一大疑団がそのまま答を指し示しているといったことがよくある。というより、それこそが禅であると言いたい。観念の遊びではない。他人事でもない。わがいのちの、端的の一大事として、問に真向かい、自己に真向かい、師家に真向かうとき、問はそのまま答となって問者に響いて来る。響いてこなければならない。

問いに切実であればあるほど、感応道交するものである。問いが問いでなくなっているのである。師家はそのような領域へ修行者を後押しし、着き落とす人のことを言うのである。


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いのちの事実は問いの世界に生れ落ちたのではない。本来的に答の中で生まれ、生き、死んでゆくのである。問いとは何か?誰が問うているのか?問うている私とは何ものか?禅問答とは茶掛けの為の言葉遊びではない。教養ではない。修行者という「?」にして「!」なるものの教外別伝の宗旨、阿吽の呼吸、月を指す指、今ここの肉声なのである。

修行者の日暮らしとはそのような自己問答の日暮らしであると言ってもよかろう。一年務めればそれでよし、とするようなものでもないし、一朝一夕でどうにかなるような筋合いのものでもない。どのような道でもそうであろうが、師に鍛えられ、人に鍛えられ、自己に鍛えられ、歳月に鍛えられ、自得する世界なのである。あきらめたときから道はなくなる。初心忘れるべからずとは、そのような人となり、仏弟子となるための人生の仔細があるからである。

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