再生への旅

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zoom RSS 今日の管見・表現の彼岸

<<   作成日時 : 2013/09/21 05:23   >>

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たまきはる色なき風を写生せよ 玉宗

夫人の要望で金沢の県立美術館へ行って来た。
俵屋宗達の絵が見たいのだと言う。気乗りしなかったのだが、秋晴れの天下で一人留守番するのもつまらなく同行してやった。

美術館二階では「俵屋宗達と琳派展」が開かれていた。
俵屋宗達と言えば茶や能の世界とも関わりが深いようで、その世界に多少嗜みや興味のある夫人が鑑賞したいという思惑を現場に立って見て察したことである。
会場には俵屋宗達は勿論のこと、本阿弥光悦、尾形光琳などといった琳派の作品が展示されていた。「風神雷神図」などは多くの人に知られていよう。個人的には美術館といった類は余り好きではないのだが、今回は比較的真面目に、ゆっくりと見たほうである。

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会場を違えて「鴨居玲展」も催されていた。こちらはこてこての油絵の世界である。金沢と縁の深い鴨居玲のことは私も以前から知っていた。好き嫌いは別として「酔うて候」などは忘れられない作品である。鴨居独特の世界が醸し出されている。本人はお酒が好きだったようで、あの色彩感覚、筆運び、色使い、濃淡は尋常を些か逸しているといった感が私にはある。重いのである。息がつまるようなところがある。絵には見ていて救われるようなものとそうでないものがあるとしたら、私にとって鴨居の世界は後者である。それは決して彼の作品の芸術的価値を否定するものではないが、少なくとも今の私は鴨居の絵を部屋に飾ることはないであろう。それなら俵屋宗達や尾形光琳の絵は飾るのかと言えば、どうもそうでもないらしい。

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しかし、今回言いたいのはそういうことではない。若い頃は絵に興味があった私であるが、この歳になって「絵画表現」に満足していない自分であることに気付いたのである。ついには「表現」とは何なんだろうと考え込んでしまったほどである。

「絵」という「作品」は文字通り私の目の前にある。変ないいかたであるが、要するにどうもそれが気にいらないらしい。「作品」によるのではあろうが、「解る絵」「想像力の及ぶ範囲の絵」といったものへの拒否反応のようなものが出来上がっているようなのである。この「常識」を打ち破ってくれる「出会い」こそが、私にとって真の「作品」であるのかもしれないと思ったりする。それでは「表現」とは何か?

憚りながらも「俳句表現」に手足を突っ込んでいる私である。文藝の領域、つまり「ことばの世界」は「絵」のように目には見えない。というのが常識であるが、そうだろうか?「感性」とはそんなあやふやなものだろうか?少なくとも「見る、見えない」は表現の本質ではないというのが私のスタンスである。

「表現」とは自己の世界を現すことであるというのが常識であるが、ほんとにそうだろうか?自己でない世界を表すことだって立派に価値のあることではないのか。「謎」は自己の内にも外にも満ち満ちでいる。抽象具象に関係なく、芸術家は自己の内外に拘っている時代は疾うに過ぎたのではないか。

「想像力」は光よりも早く、遠くへ飛ぶことが出来るとうにが常識の様であるがほんとにそうだろうか?それも畢竟私の飛翔力の及ぶ範囲のことであることを忘れてはならない。換言すれば、だからこそ私は私を越えることに全力を賭けなければならない。それこそが「表現の醍醐味」ではなかろうか。

文学であれ、絵画であれ、音楽であれ、演劇であれ、そのような契機を齎す作品こそが、私にと言って芸術、表現の名に値するものだと思えるし、少なくとも私の俳句表現はそのような筋合いのものである。以上、管見である所以。


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「十六夜」

けものめく能登の山並いざよへる

赤々と十六夜月の登り初め

十六夜の月より高き峠かな

十六夜の月天心にして白む

露けしや寝台列車軋む音

天駆ける少年の夢蛇穴に

銀漢を仰ぐ怒れる拳もて

拾ひたる団栗を捨てられもせず

星流れ父が崩壊し始める

鮎落ちて星は過去へと疾走す




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