再生への旅

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zoom RSS いのちの戴き方

<<   作成日時 : 2013/09/28 04:35   >>

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人と会はぬまなこはうつろ紫蘇は実に 玉宗


「人が生きているということは、全て初めての体験、一度もやったことにない生活、古い体験に用はない。 その時、そのことが在るだけ。」<井上義衍語録より>


人が生きているということは、全て初めての体験、一度もやったことのない生活、その時、そのことが在るだけ。いつも初心。いつも初体験。 赤子は赤子で今を初体験。17歳は17歳で今が初体験。20歳は20歳で初体験。青年は青年で、中年は中年で、晩年は晩年で、臨終は臨終で、生老病死は生老病死で初体験。諸行無常とはそういうことである。取り返しがつかない、取り返す義理もない今の、新鮮な、縁起を生きている、その事実をいのちとも言い、今とも言い、私とも言う。

「いや、そんなことはない。今日も昨日も代り映えのしない日常の繰り返しであるし、去年と同じ暮らしぶりである。相変わらず癪に障る奴がいるし、相変わらず思い通りにならないことばかりではないか。」

このようないのちのさ中の認識とは竟に無明のアリバイみたいな代物である。認識とは、ものを認める心であるが、ものを認めて執着をする危うい人間性がある。愚かさとは、人間のそのような認識以後の話である。
仏道とは、いのちの事実を真っ直ぐに見ることが試されている。
いのちそのものには取捨選択の選り好みといった主体性がない。ないながら、必ず世界と一如になって動かざるを得ない代物である。眼耳鼻舌身意、六根清浄にして、そのものずばりである。それを「道」とも云い、「心」ともいう。それは人の「見方」といったようなものではない。事実そのものの様子、といったようなものである。

これ以上にない、いのちの必然性と確実性。誤魔化しの利かない世界を生きている私。それは私の認識、見解以前の様子、諸行無常の端的の様子である。仏道の理想とはつまり、ありのままに生きることである。見方を変えて言えば、欲望を越えて生きるには、いのちの事実に従順である以外にないということだ。
仏道は「考え方」や「哲学」や「教養」といった認識界隈の話しではない。今、ここに、息をしている事実、そのような覿面のいのちの戴き方の話しである。無一物にして来たり、無一物にしてし去る。

一物を背負っているのは誰か?!本来清浄なるわが身ひとつの決着のことであればこそ、難行であり、易行でもある所以である。


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「女心」

手に負へぬ女心や花カンナ

小言いふ母じやよ南瓜煮てる間も

くちなはがぶつくさ云うて穴に入る

きちきちばつた夕日へ翔んでみせにけり

はたはたのおんぶに抱つこ日が暮るゝ

梨喰うて怒りを少し収めけり

いまさら栗を剥いてくれろと云へもせず

二つほど柚子を貰ひぬ垣根越し

くわりんの実色づく空の眩しさよ

反古焚いて葉月の夕べけぶらする





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