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zoom RSS 僧堂とは何か?

<<   作成日時 : 2013/10/01 05:11   >>

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肩肘を張らねば蜻蛉止まるなり 玉宗

僧堂は叢林(そうりん)とも呼ばれ、樹木が叢がっている林という意味であるが、修行僧が和合して一つの所に住んで、樹木のように静寂に修行に励んでいる場所を意味している。狭義には、禅の修行道場を意味しており、禅林や栴檀林などという。<参照・つらつら日暮し関連用語集>

又、仲間と共に切磋琢磨して向日的にまっすぐ精進するところでもあるという意味合いもあるだろう。然し、それは「競争」ではない。宗教は競争とは程遠いものであろう。自己を確立し、自己が自己に落ち着くのに、競争するべき他者というものは必要ない。「群を抜けて益なし」という法の道理もある。

然し、それは自律の為に、他律の眼が必要ないということではない。人は一人では中々自己を律することは難しいのも現実である。大衆・和合衆・清浄大海衆ともよばれる雲水仲間との共同生活での、他律の眼があってこそ、仏の道を曲がりなりにも歩むことができるのではないか。

僧堂はお坊さんをつくる学校であると指摘されることがある。確かに、師家や役寮さんから修行の用心や方向性、実践方法を教えて貰う。教える教わるという次元では「学校」という図式が当て嵌まるだろう。まして今や、世襲制となった寺院の後継者でもある雲水には、寺院護持の実際的知恵や進退作法がカリキュラム化されている。教える方にもそれを履行しなければならない責任がある。

僧堂では本来、自己を決着するのに参学師の認可がなくてはならない。お寺の住職であることと、道の真相を極めているかどうかは別問題である。大方は自己採点で僧堂での修行を終えているのではないか。送る方も、送られる方も、思えば究極の自己責任の世界である。お寺に入れば、亜流の末席に連なる私のようなものでも「方丈さん」として敬ってくれるが、「僧としての内実」が備わっているかどうかという、その辺の微妙なところは在家の方も敏感に反応するものである。

本物はいつの時代にも少なく、足を棒にして訪ね歩かなければならない。お坊さんの修行も僧堂だけではなく、住職になってからも様々な参学の機会を活かして自己の境地を深めていかなければならない。

「一生不離叢林」という出家の覚悟も、実際のところ、数年の安居を経ると僧堂を出ていかなければならないのが実情である。一生雲水として叢林に留まるというのは稀であろう。寺院の後継者であるからには嫌でも実家であるお寺に戻らなければならない。一生「学校」に留まっているのは指導者か、雇われている者か、余程の道心家か、学校が好きでたまらない者か、帰るべきお寺がない者であろう。

矢張り、僧堂はお坊さん側の事情からみても「僧侶養成所」というに相応しい。然し、私などには多少、違和感が残るのが正直なところである。僧堂は「学校」と違い、お坊さんの生き方を学ぶだけではなく、お坊さんとは何かとを常に問い続ける場所である筈だ。真の教育者、指導者が居てこそ「学校」の面目が果たせるというものだろう。

そうであるならば、僧堂に関わる者は「学校」という権威を嵩にしてはならないし、既得権益の如き振る舞いはあってはならないことだ。
僧堂は誰の為にあるのか?道を求める者の為にあり、道心を芽生えさせるために存在しなくてはならない。





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