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zoom RSS 今日の教外別伝・独坐大雄峰

<<   作成日時 : 2013/10/15 02:07   >>

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連なれる嶺より高き刈田かな 玉宗

お茶席に一行物の禅語の掛け軸が掛けられているのをよく見る。お茶を習っている妻にも時々その意味を尋ねられることが多い。

「だから、そういう意味なんだってば!」

「お父さんは不親切ね!もっと、解りやすく、やさしく教えてくれてもいいじゃない。」

「ああ、面倒くさいなあ。見た通りでいいじゃないか。」

「なにそれ、意味分かんない!答えになってないし。本当は知らないんでしょ。」

「ああ、知りませんよ。知らなくったって何の不都合もございませんし。」

まあ、この場合は夫婦間の戯れであるが、 「独坐大雄峰」もそんな禅語の一つであり、ご存知の方も多いだろう。これは約千二百年前、中国・唐時代の禅者・百丈大智禅師の言葉である。

一人の修行僧が禅師に問うた。

「如何なる是れ奇特の事」

「独坐大雄峰」

「奇特の事」とは「この上ない在り難いこと。すばらしいこと」という意味だろう。それは何ですか、と尋ねた訳である。百丈禅師の住まわれていたお寺は百丈山とも、大雄山とも呼ばれていた。今、この大雄峰に坐っている。禅者であるから坐禅が本領である。そのことが奇特なことなのだと返答したのである。

「禅語」であると云うことは、そこに宗教的実践から得た世界の実相が隠されているということであろう。「不立文字・教外別伝」が宗旨の禅からすれば禅語は「月を差す指」ということである。ひらたく言えば、実相への鍵・窓なのである。鍵や窓や指は「そのもの」ではない。いくら有名なお寺さんの掛け軸や色紙を持っていても、又、意味を理解していても、やはり「そのもの」ではない。

私が妻に苛立つのは、そのような「理解したという妄想」を抱くより、無知なままでも彼女自身が「そのもの」であってくれれば充分なのだということを伝えたいが為なのである。

「進歩・分別」という幻想は抜き難いものがある。人類の歴史を顧みて私はそんな感慨を抱かずにはいられない。分別・知恵がつくということは比べ、溜めることを覚えることでもあろう。人類の文明も畢竟その次元の話しである。

仏道はどこまでも個の存在の深み、いのちの豊かさへ切り込んでゆく。それは比較してどうなるものでもないし、溜めこむことができるような筋合いのものでもない。有為転変する社会や諸行無常の自然の中でどのようなことがあってもなんともない自己の確立。それこそが人生の一大事、奇特事なのだという矜持がある。宗教はそういう意味では進歩・DOINGではなく、退歩・UNDOINGを学ぶ事であると云えよう。

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「通草の実」

通草の実これみよがしの高さにて

まづ母が喰うてみせたる通草かな

空はいつもひとりぼつちの鬼やんま

住職のもいでくれたる柿もらふ

柿吊るす竿に褌並べ干す

結界をはみ出してゐる椿の実

ほそみゆく水の行方やもみづれる

連なれる嶺より高き刈田かな

ふるさとは朝に老いぬ芋の露

うぶすなの社の裏に蚊の名残り

栗落ちて能登の山並あとづさる

団栗や村を出てゆくつもりなし






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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
「〜について知っている」と「〜を知っている」は違う、とか「do(すること)ではなくbe(いきること)を学ぶ」などの考え方を思い出しながら読ませていただきました。ありがとうございました。

2013/10/15 18:43

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