再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 永遠を失くした現代人

<<   作成日時 : 2013/10/02 04:26   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


何気なき風にコスモス応へけり 玉宗

他所の宗派の檀家さんであるが、母親を亡くした娘が、「母は成仏したのでしょうか?」といったような質問を受けた。「死者の成仏」とは如何なることか。それはそのまま「永遠なるもの」への問いかけではなかろうかと私などは捉えている。何を見当違いなことを、と言い捨てるのは易しいが、おそらくそこには、眼前の死、無常を受け入れられない人間の心情が横たわっている。

人類はその発生当初から命が生と死の条件の元にあることをいやがうえにも知らされたに違いない。それが本能的認知から前頭葉の発達による思考的認知へと領域を広げたのだとしても、いのちは何らかの形で知っていることに変わりはないだろう。命が儚く、限りあるものであること、この世にいなくなったことは目に見えない世界への旅立ちとして捉えられた。異界と現象界。この世あの世。現実と非現実が繋がっているといった世界の把握の仕方が生まれていった。目の前にある屍は余りに無惨であり、無常であり、無情であり、余りにも果敢無い命。そこには何かの意図があるに違いなかった。あって欲しかった。ある人間は当然のごとく「永遠の命」を欲した。
人はその置かれた環境の中で身の丈に合った「神話」を創世する。それは「永遠の喪失」に名を借りた「刹那主義という現象」であったりするかもしれない。

しかし、人間の命が再び同じ姿でこの世に再生しないことは現実が教えてくれている。人類の歴史、それは「無常」が命の宿命、条件であることを知らされる歴史であったとも言えよう。
「永遠なるもの」を失くした現代人。それは今に始まったことではない。現代の真の危機は「命の永遠性」を見誤っていることにあるのではないか。

「今、ここに生きているわが命を命あらしめているものの超越性」というものよりも、命の有限性を忘れさせてくれるものや情報の刹那性を信じて疑わない。そんな現代人ほど、神から遠く、傲慢になった時代はなかったかもしれない。人類の愚かさこそ「永遠」ではないかと思いたくなる。「永遠性の見誤り」「人類の愚かさ」。もしかしたら、それは釈尊以前からのことなのかもしれないと思ったりもする。

「有限なる命の超越性」を受け入れることからしか新たな「永遠なるもの」のテーマは構築されないのではなかろうか。





よい記事と思われましたらポチっとお願い致します。合掌
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
永遠を失くした現代人 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる