再生への旅

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zoom RSS 本来の面目に生きる

<<   作成日時 : 2013/10/22 04:42   >>

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ゑのころに吹く風吾も欲しいと思ふ 玉宗

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり 

これは道元禅師の傘松道詠歌の一つで、「本来面目」と題されたものである。故・川端康成がノーベル賞授賞式での講演で紹介したそうだ。川端にはこの歌に込められた魂こそが日本文化・文学の面目だという矜持があったのだろうか。

さて、今や日本では神棚や仏壇のある家庭が全体の半分にも満たないという。明治に来日したある外国人が、日本ではごく普通の家庭でもみな教会を抱えていると言ったらしいが、嘗ては、仏壇や神棚が家の中心的存在としてあった。現代に於いてそれはものやお金や情報に取って代わったという識者がいる。人生の価値、人間の値打ちが神仏からほど遠いものに取って代わったということはどいういうことなのであるか。点検してみるのも無駄ではあるまい。

「心地開明」という言葉がある。
人の心を田地に譬えている。心は田地のように、放っておくと草も群生する。経験知から云っても、私という人間は放っておくと煩悩や苦悩ばかりで情けない代物に成り下がることは間違いない。だからこそ、煩悩まみれの心地に菩提の種を捲いて、耕し続ける意義があるのだと。そこにはいのち本来の面目への目覚めがあろう。

いのちを汚すとは如何なることか。煩悩まみれとはどのような仕業なのであるか。
存在すること自体、本来、何物にも染まらない「素なるもの」であり、ならばこそ、私の今の生き方が人生の意義を創造するのであろう。信仰とは本来の面目へ還ることであり、新しく何かを付け加えたり強為することではなかろう。いのち本来の面目にどのような姿勢で私が生きたかで、私という人間の値打ちが決まることを潔しとしなければならない。菩提の種を播くとは、存在への目覚めが問われているということだ。作為ではない。

朝日や夕日を拝み、自然に手を合わせ畏敬し、仏壇や神棚に頭を垂れ手を合わせる。それはつまり自己の、いのちへ手を合わせる事であり、自己本来の面目への帰依であり、祈りなのであるということ。
諸行無常の、日々の暮らしの軸となるこのような信仰の場がないという現代人。それは自己の人生の価値や命の値打ちを見出せないでいることを証明していることに他ならないのではなかろうか。


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「秋の暮」

蒲公英の絮吹き風に委ねけり

貌を手で撫づれば秋の深みかも

ゆふぐれはひとみなやさし秋の声

けふもまた手をふるばかり夕芒

あの雲にのりおくれたる芒かな

山はしづかに暮れゆき残る虫のこゑ

ゑのころや日は金色に空焦がし

錦木の雁字搦めにもみづれり

秋暮れて流れを急ぐ水の音

踏み込んでもらふ勲章ゐのこづち

秋暮れて鋼のごとき川面かな




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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
坐禅会でお世話になっている古刹の住職様は、毎回この歌を紹介します。お箸の袋にも自筆にてしたためてあり、風雅を感じさせてくれます。
川端康成は今まであまり親しみを持っていませんでしたが、なんとなく近しい気持ちが湧いてくるのは、不思議な感覚です。
くろちゃん
2013/10/22 06:36
川端康成がストックホルムで道元様のこのお歌を紹介したのですよね。あのニヒルな彼がこの素直なお歌を絶賛したとはこれまたおもしろい。人間は一つ物差しで測れないし、決めつける何ものもないのだ、と気づかされます。
くろちゃん
2013/10/22 07:26

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