再生への旅

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zoom RSS 法話・「仏道と福祉」要旨

<<   作成日時 : 2013/10/26 04:08   >>

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傍らに目覚める朝の寒さかな 玉宗

福祉(Welfare)とは「しあわせ」や「ゆたかさ」.を意味する言葉だそうです。
福も祉も示偏ですが、示す偏は神に関わる言葉で、神の意志に通じるものという意味合いがあるのでしょう。人からみれば授かりものといった世界のことでしょうか。福祉という言葉は哲学などと同じくは、恐らく明治になって翻訳された言葉なのではないでしょうか。それ以前はなんと呼ばれていたか。些か気になるままに福祉について思うところをお話させて頂きます。

福祉といえば公共の福祉・社会福祉・福祉国家などソーシャルwelfareが通念ですが、上記のような本質から云えることは個人の福祉・パーソナルwelfareといった視点があってもいいのではないでしょうか。前者は最大公約数的・相対的・数量値として捉えることが出来るとするなら、後者は存在そのものの絶対値を指し示すものでしょう。

社会が横のつながり、横軸の問題とするなら、宗教は個人のいのちそのものの深さへのつながり。縦軸の問題であろうと考えられます。勿論、人間の存在とは個的なものでありつつ、社会的なものであるのが実際です。それが人間の存在条件であり、人生はいのちの横軸と縦軸の座標の輝きとも言えましょう。どちらもいのちの現場の話ですし、そうでなければならないと思います。人はえてして偏ってものごとを捉える癖がありますが、縦軸横軸の座標の中で揺れ動いているのが人間の実際のところでしょうか。

そして宗教・仏道もまた縦軸横軸の中での歩みなのですが、特に私個人のいのちの深さ、在り様、豊かさに私自身が切りこんでゆく世界のことであり、当に個人の福祉・パーソナルwelfareの領域であると云って差支えないものである筈です。仏道は本来的に存在そのものへの探求、道程が初心であり、全てであると思っています。
何不足ないと思われる王子の座を捨ててお釈迦様は何のために出家したか。縦軸だけでは解決できない問題を抱えていたということではないでしょうか。出家とは欲望を越えた世界を志向することです。

「生きていることに意味はあるのか?いのちに意味はあるのか?私は何のために生まれ、生きて、死んでいくのか?」
仏道はそこが始まり。いのちの話です。道元禅師様も「仏道を習うというは自己を習うなり」と諭されています。自己を知ることこそが先決問題であるという人間の魂の歴史があります。

仏道はその縦軸の構築を目指しているものと云えましょう。換言すれば私のいのちの実相を拠り所として人生を真っ直ぐ生きて行く歩みであるということ。学びであるということ。実践であるということです。その様にして社会へ関わる。そのようにして自己に関わり人間社会へ戻ってゆく。そのようなことからしても、自己の福祉を弁えることが出来なくて、社会福祉もなかろう、という理屈もあながち見当外れでもないと思うのです。いのちの現場にはそのような実体が潜んでいるのではないでしょうか。

福祉の現場にも数量的に解決できない様々な問題があるのが現実ではないでしょうか。それは余りにも人間的な問題とでも言うべきものです。換言すればいのちの実体、尊厳性を問われていることでもありましょう。

「生きていることに意味はあるのか?いのちに意味はあるのか?私は何のために生まれ、生きて、死んでいくのか?」
人間同士が相集い、関わり合っている社会福祉の現場に於いても、そのような自問自答が避けられないのではないでしょうか。まさに出家前のお釈迦さまと寸分たがわぬ欲望世界の自問自答がある筈です。

そbのような人間の自問自答への仏道の答えは明確です。
仏道は「意味付け」や「欲望」を超越して生きろと教えています。「意味付け」や「欲望」を超越して「生きている事実」の尊厳性を説いています。結論を言えば「ありのままに生きて行くいのちの話」です。

ところでその「いのちの真相」とは如何なるものと仏道では教えているか。
私が咀嚼した解釈で云わせて戴くならば、先ずそれは限りがあり、常に変化しているということ。視点を変えれば可能性の中で生きているということ。そして、縦横無尽に関わり合っており、それは比べられず、代れないという本質をもっています。また、欲張ってもしょうがないといったところがあり、中々思い通りにならないということ。且つ、なにがあってもなんともない・今を生き切ることを面目としているということ。いのちそのものに迷悟などありはしません。ただそうあるだけ。いのちは一度だって迷ったことがないのです。迷いや苦悩などは私の思慮分別の世界の話しです。それはあってないような代物です。あると言い切ったしまうのには余りにも不都合があると言わざるを得ません。

そのような本来なんともない「いのちを大事に生きる」生き方とはどのようなものか。結論はありのままに生きるしかないということです。分別や意味付けや比較や欲望に振り回されない。ぶれない自己のいのちの縦軸を確立するということです。どのような境涯になったとしても、なんともないいのちを頂いていることに目覚める。欲望の彼岸、欲望を越えたところに私の立ち帰るところがあるということ。

人生と云う諸行無常は私の分別や都合を越えたところからやってきたり、去っていったりするように見えます。そこには私の恣意や都合や誤魔化しの利かない、因果歴然の世界が展開しています。そのような世界で生き死にしていることに目覚めなければなりません。現実に目を瞑っていてはならにということです。

そのような人生に意味があるのかないのか?本来そのものに意味はありません。そのものがそのものとしてただあるだけのことです。ということはつまり、人生の意味、威儀は私が作り出していくものだということです。

仏弟子である私にとって、ありのままのいのちをありのままに頂き、そして、いのちありのままに尽くし施して生きていく、それが人生の一大事因縁、生きる意義、生き甲斐、醍醐味、福祉・幸い・ゆたかさなのであると心得ています。それが神仏と共にあると云う事。それが信仰をもつということ、それが仏の方を向いて生きているということなのだと。

人生には生老病死、生きて来たごまかしのきかない総決算のそれぞれの今があります。
本来、逃げることも負う事も出来ない今のいのち、その連続です。切れながらも繋がっているとしか言いようのないいのちの事実があります。人には誰もがそのような今の生老病死があるのではないでしょうか。
そのような本来の自己に目覚め、深まり、親しみ、受け入れ、そして寄り添う。本来の自己に寄り添い、そして人に寄り添う。存在そのもの、いのちの縦軸に目覚める。そんな福祉の人になりたいものです。

我々は「人のため、社会のため」といいながら、自己一人のいのちに決着できず、寄り添う事が出来ないでいるのではないでしょうか。人間ですから間違う事のあるのが相場です。間違ってもいいじゃないか、人間だもの。そりゃそうです。然し、そこで留まってはいけません。というよりそこまでなら不完全な人間観察と云うものです。更に云わなければなりません。人間らしさを越えたっていいじゃないか、仏の方を向いて生きていてもいいじゃないか、人間だもの、と云わなければなりません。私は真実そう思っています。間違いながらも、懺悔しながら、あきらめず、傲慢にならず謙虚に諸行無常に学ぶ姿勢こそが尊いのであり、それもまた人間の、いのちの尊厳と云うものではないかと。

生きているということは何かを学んでいるということでもありましょう。儚い、一期一会の、諸行無常の人生、いのち。そのものから学ぶこと。人間が諸行無常から学ぶ最も大事な事は「あきらめないこと」ではないでしょうか。

自己をあきらめない、自己を見捨てない。自己本来のいのちに寄り添い続ける。自己にあるいのちの深さ、ゆたかさに耳を傾け、地に足をつけて生きてゆく。それこそが、福祉に携わる者の姿勢でもあろうし、神の声を聞くということでもありましょう。そのためにも自己の時間を大事にし、欲望や分別に振り回されない知恵を身にも心にも学んで戴けたらと思います。いのちの縦軸のぶれない人間となって患者さんやケアーを必要とされる人達に接してやって下さい。まず、私たちひとりひとりがいのちのありがたさに目覚めなけれbなりませんね。有難うございました。合掌。


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「夢」

母がりの野菊手折りぬみちのべの

人恋へば星の煌めく野分かな

杜鵑草妻を哀れと思ひけり

晩菊や行方も知れぬ風の跡

生きめやも銀河の淵に脚垂れて

石蕗咲いて日はまた翳りはじめけり

天の川この世に夢の降る音か

紅葉狩いのち惜しむに似たりけり

だれよりも妻がよろこぶ団栗よ

蓑虫や夢を枕に世を凌ぎ

帰らざる風の色にも冬隣






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