再生への旅

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zoom RSS 木を植える

<<   作成日時 : 2013/10/30 05:11   >>

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教会は森の止まり木小鳥来る 玉宗

能登半島地震被災後、再建復興により伽藍は勿論、境内の様子も一変した。
以前より伽藍が三割ほど狭くなったことで庭が広くなった。裏にあるタブの木と欅の大木は伐らず残した。それ以外はきれいに整地し造園業者に依頼して新しく成木を植樹したのである。基本的には造園業者と夫人に任せたのであるが、今となってはもう少し特色のある庭にすればよかったと思うようになった。後悔先に立たず。まあしょうがない。

裏庭に土を盛って小さな畑など作ってみたりもした。畑作務をしてみて解った事だが、どうも自分が憧れる程土いじり、野菜作りが得意な訳でも好きな訳でもないことに気付いた。要するに土や草や木に囲まれていたいのである。自然の中で蠢いていたいという思いがあるのだろう。田舎に生まれ育った人間の本能的なものなのかもしれない。今年も少しばかり野菜を作ってはみたが、夫人も大して興味を示さないこともあり、頓挫した有り様である。

ところで、境内には果実のなる木が結構あることに気付いた。
かりん、無花果、スモモ、棗、山桃、柿といったところである。すべて震災後に私が復興記念として植えたものばかり。お寺には実のなる木を植えるものではないということを聞いたことがあるが、食いしん坊の住職は、そんなタブーも何処吹く風。今年は無花果が沢山成っておいしい思いをした。かりんも沢山の実をつけてごつんごつんと毎日のように落ちる。

その無花果は昨年倅が仏弟子の道を歩み始めた記念に植えたのである。こんなに早く実をつけるとは思ってもいなかった。今年は法戦式や嗣法を済ませたということで、やはり記念に栗と林檎と梨の木を植えた。普通、記念樹に果実の木を植えたと聞いたことがないのだが、まあ、しょうがない。食いしん坊の師匠が昔植えたのだと思い出してくれればいい。そして出来ることなら、たわわな実をつけて後に遺ったものたちに食べてもらいたいと願っている。

花は一年、木は10年、おれは一生と言うが、まあ、先のことは解らない。一生とは一生一寸先が闇ということでもある。私にとっての記念樹。それは諸行無常の闇を生きた私の、いのちの証でもある。


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「綿虫」

空はもうがらんだうなり雪婆

綿虫に出会ひたるのみ愛なき日

綿虫の尻に火がつくかもしれぬ

綿虫のあれでも飛んでゐるつもり

傷舐むる母は万能草虱

鐘の音も澄めり銀杏落つるころ

なほざりに育てし焚火なりしかど

父にまだ少年の目あり山葡萄

引き寄せてみよとばかりに棗の実

あららぎのこぼれて已まぬ母の郷

うつゝゆく遠まなざしやねこじやらし




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