再生への旅

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<<   作成日時 : 2013/10/08 04:43   >>

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通草捥ぐ深空に腕を差し伸べて 玉宗

念願叶って弟子と一緒に托鉢をすることができた。

一週間に及んだ嗣法の加行行持が終っての、謂わば報恩托鉢である。
例年、寒行托鉢の時期だけの行持であるが、町内を三時間ばかりかけて門付。日中は気温が上がり汗だくになった。師寮寺の托鉢は僧堂の作法とはまた違っており、戸惑っていたようではあるが、それも最初だけ。等三輪空寂の下座行であることに変わりはない。ともすれば顔見知りの町内の方々が出てきて弟子に励ましの声を掛けて下さっていた。有難いことではあるが、托鉢は情のやりとりではない側面が大いにあり、弟子を迷わせはしないかと危惧したことである。

僧堂での托鉢はよくも悪しくも、好むと好まざるとに関わらずある意味権威を背負っているところがある。人様の見る目も自ずから変わって来ることが無きにしも非ずである。興禅寺と染め抜かれた網代笠や頭陀袋をみて、百円の喜捨が十円になったり、お断りされることが珍しくない。一介の名もなき在野のお寺とは檀家意外にしてみればそんなものである。

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どこの馬の骨とも解らぬお坊さんに選り好みせず喜捨行をされる方こそ奇特と云ってよい。そのような清濁併せのまなければならないのが現実である。それほどの器が求められる。換言すれば、施しを受ける私たちの方こそ、選り好みせぬ、まっさらなこころ、眼差しを持っていなければならないのである。それは仏弟子であれば云うまでもない極めて当然の心術だ。

托鉢は私が仏道を行ずるための糧を戴く現場でもある。世過ぎや遊びごとのための物乞いではない。恥じ入る筋合いなど微塵もないが、布施行の出会いもまた縁であることを忘れてはならない。宗教は強制するされるといった領域の話しではない。おのれを空しく生きる為の実践である。あくまでも自得、自然、云為の自己表現、自己責任の世界の様子であろう。

施す方も施され方も、そのような仏道を実践していることを心得て置くに越したことはない。だからこそ、托鉢が禅僧の基本の一つであることを弟子には受け入れてほしいと切に願っている所以なのである。


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「鰯雲」

龍淵に人身御供の暗さあり

松茸の男盛りを味はへる

コスモスに解ける風のありにけり

大方は意に沿はぬなりいぼむしり

天上は奈落でもあり鰯雲

秋風や骨身に沁みる親の恩

温め酒父に古傷あるらしき

たたなはる枝さしのべて実紫

きのふよりもみづる冷えに驚きぬ

なほ奥に夜霧押し出す闇があり





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