再生への旅

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zoom RSS 布施はお坊さんの為ならず?!

<<   作成日時 : 2013/11/11 06:50   >>

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髪を剃る鏡曇れり冬紅葉 玉宗


情けは人の為ならずは、人のためにならないから情けをかけるべきではないとか、結局は自分のためなのだから情けは大切なものだとか、二通りの解釈があるらしい。「情をかける」という行為も一つの「施し」であることは相違ないだろう。
「お布施」もまたはお坊さんの生業の資助となるものといった狭義なのではない。「布施」は仏道実践の本義を備えていることを忘れてはならない。身と口と心の三業を以って「貪り」の世界に生きることもできるし、同じく三業を「施し」の世界に生きることもできる。仏道を生きる徳目の一つなのである。

ものだけではない、こころ一つ、言葉一つでさえ惜しみ、貪るのが人間の相場である。挨拶という「施し」も人の為ではなく、自己の世界を清浄にするための行為として捉えたい。「挨拶はされるものではない。するものである」といったこともそのような道の通塞を語っていよう。

手が為すところの業も、信心の実践として合掌することもできれば、自他を傷つける妄想の因ともなる。心という目に見えないものに人間は結構誤魔化され、迷わされ、引きづられる。そして、一方では「もの」という目に見えるものに執着し、迷わされることも又多い。偏らず、貪らず、諂わず、身と心をまっすぐ生きることは容易ではない。人類の歴史とは挑戦の歴史でもあるが、それはとりもなおさず貪りの歴史でもあるという影をもっている。

「貪り」を離れる事によって開ける世界がある。見えてくる地平がある。手放すことによって与えられるものが確かにある。百歩譲って、それは負け惜しみの言い草だとしよう。そうだとしても、人生には負けるが勝ちと云った抜き差しならない諸行無常の恩恵がある。

今、ここを大事に生きるとは、今さえよければ、自分さえよければ、といった生き方と対極のものである。「布施に生きる」とは自己を徹底空しくすることによって大いなるもの、永遠のいのちに繋がる道なのであると思いたい。

「施し」の実践。それはお坊さんである私の生き方の本質であり、人間の尊厳性の実践であり、自己の清浄な世界の表現である。私にとって生きることの目的はそれで十分でなければならない。



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「落葉」

本山の落葉吹き寄すそば屋かな

死に真似をするにほどよき枯れ具合

柿落葉銭を掃き寄す音したり

大根を抜いて夕空すさびけり

長子継ぐ蕪の甘さにほだされて

青春は混沌大根に齧り付く

葱買うて戻れば妻のあかるさよ

白菜を切れば雪踏む音したる

蜜柑喰いつゝぼそりと痛いことをいふ

山茶花の散るにまかせて無位無官







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