再生への旅

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zoom RSS 能登の冬「二見に渡らない」

<<   作成日時 : 2013/11/20 05:17   >>

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旅人に波の花よとよろこばれ 玉宗

興禅寺の法要も終わり、所用があって隣町まで夫人と出掛けた。
日本海の外海添いに249号線を走ると、能登の初冬の風物詩「波の花」が舞っていた。能登の海はすっかり冬の姿を見せている。これからまた長い冬に耐える日々が始まる。この冬の厳しさがあってこその能登の自然の恵みであることは言うまでもない。

自然の中で生かされていること、自然と共に生きていることを如実に知らされる。その恩恵と無情さと。自然は文字通りあるがままである。人間の都合の運為ではない。事実とはただ、そうあるだけで、そこに「見解」といったものはない。まさに「中道」の姿なのである。そして、それがそのまま自己の世界なのであるということ。

人間世界も安易な道を選んでばかりいては碌なものにはならない。かと言って、苦行に執着するのも間違いの根源、無明といった誹りを免れないであろう。目が外ばかり向いても危うい。又、内ばかりに向いても同様であろう。人間とは意外と極端に偏る癖をもっている。

「難行・易行」とか、「自力・他力」とか、「聖道門・浄土門」とかいった括りでこの世界を括ろうとすることが未だに多い。正直なところ、うんざりしている。仏道に於いても二見に渡らなければ事の真相を捉えられないとは実に面倒ではあるが、これもまた否定しようのない人間世界の現実ではある。人の数だけ眼差しがあるように、宗教への入口もまた人の数だけあるということなのだろう。

それにしても、抓れば痛いのは自分である。だれも自分に代って自分のいのちを生きてはくれない。誰も自分に代って死んではくれない。誰も自分に代って坐禅してはくれない。誰も自分に代って念仏はしてくれない。誰も自分に代って迷ったり、救われたりしてはくれない。今、ここで、息を吸って吐いている事実。これを仮に私と云っている。これを仮に衆生とかほとけとか迷いとか悟りと云っている。この事実を仮にに自力とも他力とも言っている

生まれて、生きて、死んでいく。眼前の、諸行無常のあり様、いのちの在り様。そこがすべての始まりであり、終りである。その事実に二見などあろう筈もない。如何に況や、三見、四見をや。能登の冬をわが身とし、わが心模様とし、豊かさとし、血肉とする。ありのままに見、ありのままに生きること、それこそが真の難行であると言いたくなる。


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「短日」

綿虫の尻に火がつくゆふまぐれ

違ふ世を見て来た貌やかいつぶり

暮れてゆく跫ばかり蝶凍つる

たつぷりと日照雨過ぎたる烏瓜

一筆啓上前略母上暮早し

あしたよりゆふべものいふ冬木かな

角巻やなかば駈落ちせし姉の

ダメだしを喰らうてゐたる蒲団かな

行く末の大凡見えて日向ぼこ

泥酔の父を眠らせ喰ふ蜜柑

マスクせし眼が拒絶してをりぬ






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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
今晩はいつも嬉しい記事をありがとうございます。心が洗われる気がします!
たろうくん(清水太郎)
2013/11/20 19:36

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