再生への旅

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zoom RSS 冬安居・自己を見捨てない

<<   作成日時 : 2013/11/07 05:10   >>

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冬に入る空白々と遠ざかり 玉宗

今日は立冬。僧堂では今月中旬から冬安居の制中となるのが一般的である。弟子も二度目の冬安居を迎えようとしている。修行とは何であるか?自問自答しながらの日々を重ねていることであろう。

宗門のとある僧堂で人権問題から修行道場の看板を取り消されたといった事例があった。僧堂とは生身の人間が相寄って仏の道に精進しようとしている現場である。ある意味、生々しい現場なのである。そのような事例は修行者と雖も、執着からの「捨」や「離」を今に実現させることの困難さを証明しているのである。大なり小なり、有象無象、僧堂という集団もまた人間性からくる様々な葛藤の現場でもある。
敢えて仏道とは云わずとも、人生とは他を知り、自を知り、人間を知ること、つまり関係性を学ぶことそのものであると云ってよかろう。

弟子の場合、生まれて以来二十余年、社会と云う人間関係、或いは人間の社会性といったものを学ぶにあたって、当にこれからが本番なのである。学びの中で、ぶれない世界観、人生観、人間観、生命観といったものを育て、創り上げていかなければならない。それは僧堂にいようがいまいが同様の問題である。

親として、師匠として困難や苦境にぶち当たっている彼に手を差し伸べてやりたい思いがあるのは否定できない。然し、仏道で生きていくと決めた彼が自立していくためには敢えて暗中模索の現実に抛り出して置くのも大事なことのようにも思えるのである。畢竟自己を知るための人生である。自己を創造するための人生である。何度も人生の壁、人間の壁、自己の壁にぶちあたって自得するものがあるだろう。なければならない。こればかりは親であっても、師匠であっても代ることのでいない存在の条件にして存在の前提である。ましてや、仏道はそのような人間性を越えた領域の話である。

大事なことは、いつまでも人間界隈、欲望界隈のところで沈潜し、或いは右往左往し、振り回されている場合ではないということだ。そこに目覚めなければならない。目覚めてほしいのである。なにがあってもぶれない、なんともない真の自己を確立してほしい。答は用意されている。いのちは答のまっただ中へ生れ落ちたのだから、自問の方向性さえ間違わなければそれに越したことはない。というより、それこそが修行の真偽を分ける境目なのである。問いも答も自己の中に用意されている。

冬安居が始まろうとしている。
本来の面目を生きている自己に向き合うこころざし、依るべき本来の自己を見捨てぬこころざしを失くさないでほしいと切に思う不肖の親にして師匠なのである。


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「立冬」

神の留守屋根に梯子を立て掛けて

立冬の空を過れるものの影

山眠るしづけさにある安居かな

うつろなる空のあかるさ神無月

へうへうと風つれなくも神の旅

縄跳や夕餉を告げに二度三度

掃き寄せし落葉をさらふつむじ風

時雨忌とおもふ湖畔を歩きつゝ

冬に入る空白々と遠ざかり

何かが終り何か始まる寒さかな



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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
「答えは用意されている」

今年もちゃんと立冬、ですね。
右往左往しておろおろしているうちにも、いつの間にか冬が近づいています。


問いも答えも自己のなかに…
いつも周りへの言い訳を探しながらの私も、またいます。

だんだん寒くなるようです。ご自愛ください。



kingyo
2013/11/07 09:10

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