再生への旅

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zoom RSS 無事是貴人

<<   作成日時 : 2013/11/10 05:17   >>

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ざうざうと山を揺らして冬来たる 玉宗

「無事是貴人」という禅語がある。曹洞宗では「無事」だけを揮毫する師家が多いようだ。下記の出典からも察せられるように、この言葉は臨家の方でよく使われているのだろう。

<無事是れ貴人、但だ造作すること莫れ、祗だ是れ平常なり。你、外に向かって傍家に求過して、脚手を覓めんと擬す。錯り了れり> (臨済録)

なんともない日常や自己であることのあり難さというものがある。それを望まぬ者などありはしないだろう。無事なる日常を願いながらも、叶わぬことの多いのが人生でもある。ならばこそ尚更に、今を生き生かされていることに感謝し祈らずにはいられないし、有事の際も平穏無事の折にも私の「事」への関わり方が試されていると云っていい。

禅語としての「無事」とは、平穏無事という意味合いだけではなく「あるがままの世界、まっさらな世界」をさしているものであろう。私の都合や欲を棚上げした世界がどうして「貴」なるものなのか。人間の見解を抜きにしてみれば、この世には「無事」もなく、「有事」もない。因縁生としての「事」があるばかりだとも云えよう。ところが、そこには「有無」に拘る愚かにして哀れな私がいる。存在の内外に満足し安住しきれないで、何かを求め右往左往することを已めない貴人らしからぬ私がいる。

「無事」の「無」とは常ならぬということでもあろう。「ある、ない」という線引きではなく、「事」の真相を「無」と云っているのである。なればこそ、それは人生の宝、「貴」となるのである。

執着を已め、いかなる境界を目の当たりにしようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを「貴なる事」として受け入れ生きて行くこと。それが人生の一大事因縁であり、肝に銘じなければならない法灯だと先人は云うのでる。



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「冬木」

夕されば引き揚げてゆく冬木かな

紅葉散り空のあらはとなりにけり

さつきから蜜柑を食べてゐるらしき

三つほど柚子をもらひて退散す

月を恋うて鯨は鳴いてゐるらしき

うなばらのさびしさ鯨うらがへる

もの云はぬひだるさ焚火してゐたり

葱を抜くくらいのことはせよと云ふ

連山をそばだて鷹の驕りかな

この風が大根干すにはいいのだと

住職に大根背負はせ帰しけり

山茶花の空張りつめてゆくばかり








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