再生への旅

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zoom RSS 心に響く板木の説法

<<   作成日時 : 2013/12/15 04:06   >>

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送食の板木谺す冬安居 玉宗

↑写真の板木は先日拝登した永平寺山門に掛るものである。

「恐怖時光之大速 所以行道救頭燃」

確か、道元禅師の「学道用心集」の中のお言葉ではなかっただろうか。「時光(じこう)の大(はなはだ)速(すみやか)なることを恐怖(くふ)す 所以(ゆえ)に行道(ぎょうどう)は頭燃(づねん)を救(すくう)」

一般の方々にも大凡理解できると思うが、「頭燃」とは頭髪に火がついて燃えはじめること。危急のたとえである。光陰の移りやすさ、いのちの儚さに只茫然としていていいのか、といった仏道の自問自答がここにある。だれでも頭に火がついたら、四の五の云わず躊躇することなく火を払いのけようとするだろう。
諸行無常の人生もまた、頭に火の着いた緊急の一大事因縁であるという目覚めがここにはある。自己をあきらめることもなく、一生を過ごすことも十分に可能であるが、自覚的に生きていくことを身上とする仏道にとってそれは余りにいのち口惜しいことではあろう。

迷わなければ悟るもないとも言えるが、自己の脚下を知る者は自己である。自己でなければならない。頭に火がついているのかいないのか、他人事ではないことを自己が一番よく知っている筈である。一般論で済まそうという話ではない。

その頭燃を払いのけ、救うのが「行道」つまり「行仏道」だというのである。
その「仏道」とはいつも云うように「いのち」の領域の話である。「時光」とは何か?「速やか」とは何か?「恐怖する」とは如何なることか?「救い」とは何か?全て喩えられているのは「いのちの戴き方」なのである。

誰ひとりとして避けられない、限りある諸行無常なるいのち。おまえはどっちを向いて生きていこうとしているのか?!俺は目覚めているのか?!板木を叩くたびにその谺はそれぞれの胸中へと響く説法のである。響かなければならない。聞く耳を持たなければならない。



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「冬虹」

風の子の書き損じたる冬の虹

冬虹の根を立ちあぐる能登荒磯

冬鳥や叶はぬ恋の美しき

枯野ゆく美しき誤解を携へて

煤逃の膝より猫の零れけり

赫々と夢のつまりし冬芽かな

切株の芯まで濡らし冬の雨

耳しひてめしひて冬の芽となりぬ

着ぶくれて濡れせんべいの不甲斐無さ

底冷えの街に花屋の灯や濡れて

父の座に今はわれゐる寒さかな

之繞が紙をはみ出す雪起し









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