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zoom RSS 今日の妄想「吾輩は猫である」

<<   作成日時 : 2013/12/04 05:13   >>

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日に一度海を見に行く竈猫 玉宗

私が永福寺に婿養子に入った頃、お寺には既に猫が数匹出入りしていた。

町内の捨て猫や貰い猫なのであるが殆ど飼い猫と言ってよい待遇だった。私は猫は嫌いではないが、なくてはならないほど好きでもない。どちらかと言えば、構うのがときに面倒くさい、といった程度の関心しか寄せていない存在である。どうも、あの、気まぐれ、ぶっきら棒さが癪に障ることがある。許せない、といったほどでもないが、関わらないに越したことはない、といったつきあいをしたい類の存在である。まあ、そんな婿殿の本心を疾うに見透かしていたようで、代々の猫で私に心を許した奴はいなかった。

一方、夫人は当に猫人間ではないかと勘繰りたくなるような女性で、殆どの猫が例外なく寄ってくるし、懐くのである。どうも会話ができるらしい。小さい頃から猫と一緒に育ってきたというのが本人の証言である。満更でもないらしい。良くも悪くも彼女には確かに私にない才能がある。

そんな猫たちも数年前からいなくなり、「このさびしさはなんだろう・・・」と家族がそれぞれに感じているらしい雰囲気がある。ペットとは無条件に可愛がることができる存在である。それがいなくなった。私は今でも「来る者は拒まず、去る者は追わず」といった立場なのであるが、どうも猫との縁が薄くなってしまった。生活に余裕がなくなったのだろうか。猫も寄り付かなくなってしまったお寺。それはいかにも私のポリシーに反する。弱き者へ愛情をそそぐことに吝かではない。

それにしても、あれほど猫好きの夫人が猫を飼いたいと言い出さないのが不思議ではある。

そこでハタと気付いたのだが、もしかしたら、私の存在が猫に取って代ったということなのだろうか。そういわれてみれば、私は猫のような性格なのかもしれない。人見知り、気まぐれ、内弁慶、泣き虫、喰わず嫌い、恩知らず、人間垂らし、怠け者、猫飯大好き、等々。猫のことをとやかく言えた義理ではない。猫が寄り付かなかったのも、私自身が猫がとくに好きでもなかったのも、実は吾輩は猫であるとの無意識の反作用だった可能性が大いにある。

なんてこった。

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「家族」

炬燵から祖父を引き摺り出しにけり

熱燗や父を荒野へ置き去りに

嵩低き祖母の蒲団を覗きこむ

よく笑ふ母の肩揉む囲炉裏かな

シヨールせし姉に恋して以来なり

妹が形見のやうにしぐれけり

伯母といふ母とはちがふ冬灯

弟の嘘が許せぬ竈猫

竹馬の高さを兄と競ひ合ふ

妻といふ雪が降る夜のひそやかさ




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