再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 鳳来堂年頭〜!道は「貧」に学ぶべし

<<   作成日時 : 2014/01/03 21:07   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


御鏡の含み笑ひよ末の世の 玉宗

4日は永福寺の年頭廻りである。

町内の子供たちを連れて輪島市内一円に祈祷札と御鏡餅を一切れづつ配って歩くのである。檀家さんではないのだが、昔から永福寺は「ほうらいどうねんとう」として知れ渡っている正月行事なのである。約百年前に旧門前から輪島に移転して以来ではあるが、三尊仏は旧輪島の誓願寺という700年以上も前の真言宗の仏様を引き継いでいる。誓願寺なきあと数百年に亘って地元の信者たちが三尊仏を守り伝えてきた。そのような所縁の仏様を永福寺は移転合併する形で引受け現在に至っている。特に、地蔵様と観音様の信仰は近隣在郷の信仰を得てきた経緯があり、今も尚、心ある人達の帰依を得ている。

檀家はないのであるが、そのような篤い信者さんたちに支えられているのが永福寺なのである。住職にしてみれば常什からすれば檀家さんがあった方が安定安心できる向きもあるのだが、一方で檀家さんに縛られない気易さといったものも正直なところあるのである。私物化できるといったような話しではなく、仏道としてやるべきことをやっていればそれなりに食べて行けるといった、お坊さんらしいその日暮らしを実践できるのである。

先代の住職は檀家さんを欲しがらなかった。檀家にしてくださいと頼まれても断り続けたのである。私など、永福寺に入った当初、そんな経緯を知り「何を血迷ったことを・・・」と内心思ったことであった、先代の仏道を生きる深い思いを今になって痛感しているのである。名誉や財産を蓄える為にお坊さんになったのではないといった古風な矜持。それは今の私にもある。欲しがっても叶わなかったからだろうと揶揄されるかもしれないが、そんなことで得々としている輩こそ哀れなもんではある。

道は「貧」なるものである。「貧」とは「素」ということだ。仏道に於ける「貧」とは「実相」「無一物」ということだ。「貧しい」という話ではない。「貧」から道を学ぶ。それは道が「捨」なるものであるからだ。
「ほうらいどうねんとう」もそういうことからすれば「捨心行」であり、托鉢と同義であると心得ている。実際のところ断られる家も少なくはない。子供達にはその辺の事情も噛み砕いて話しているつもりである。単なる小づかい稼ぎではない。

子供たちと一緒に仏の行を積んでいるといった誇りがある。輪島にはまだそのような文化・信仰を受け入れてくれる風土・人間性が残っているものと信じている。


画像



画像




「歳神」

歳神を祀る祠も煤けたる

同じ道歩む父子の初湯かな

裏山の風の音聞く初湯かな

初神楽沖の島影浮かぶ日の

数の子や手塩にかけてこれくらい

繭玉や丑三つ時の灯のさ揺れ

雪女郎舐めたる夜の炎かな

九十を超えたる母へ酌む年酒

山河越ゑみなまぼろしの初昔

仏飯の湯気も豊かに松の内

冬怒涛雲の高さに逆巻けり










ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
鳳来堂年頭〜!道は「貧」に学ぶべし 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる