再生への旅

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zoom RSS 今日の百尺竿頭・溺れたら藁を掴むな?!

<<   作成日時 : 2014/02/02 08:01   >>

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朝はさながら港のごとし春の霜 玉宗


「溺れるもの藁をも掴む」というなんだか上から目線のような言葉があるが、仏道的には「溺れたくなかったら藁を掴むな」と言いたい。藁を掴むから溺れるのである。藁のような些細な、つまらないものにしがみ付いているから溺れるのである。

溺れるとはどういうことなのか?勿論、人生での話である。世の中には結構、自分が溺れていることに気付いていない御仁がいる。迷ってなんかいないと高を括っている。中には迷うことこそが人間らしさそのものであると公言する者までいる。
藁を掴むとは「執着」して懲りないあり様のことである。「藁」のごとき取るに足りないものに拘り、後生大事に持ち歩いて生きている人間。見栄や肩書きや金だけではない。自他、生死、迷悟、損得、主義主張、等々、様々な見解に縛られて実相を顧みない、ありのままの世界を有耶無耶にして、誤魔化しの利かない世界で自分だけが埒外にいると思い込みほくそ笑んでいる人間。

「藁」を掴んで離さず、狭く、融通の利かない、大らかでない世界に生きていることを生き甲斐とし、欲望に引きずられることこそが人生であると諦めているかの如きである。一体誰がそんなことを教えたのであろうか?

それでいいのかと仏道は諭している。
行き詰るのは「溺れている」証左である。行き詰ったら自分は藁を掴んでいるのだと思い知って手を放てばいいのだ。行き詰まりは再生の機会なのである。行き詰まりは目覚めへの踏み台なのである。掴んでいた藁から手を放ち、執着のない世界へ飛び出せばいい。百尺の竿のてっぺんにしがみついているのは竟に妄想である。人生はいつも百尺の竿頭である。諸行無常の端的の今である。危ういことこの上ない。だからこそ手を放ち、身を捨て、心を開き、拘りのない地平を歩み、泳げばいいのである。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。放てば手に満てり。あたり前のことである。ありのままとは私のない、私ごとのできない世界のことであり、私に拘ることに意味のない世界のことである。私がなければ全てが、「ただ、そうある」だけのことである。事実とはそういうものだろう。本来、現実とは実に大したものなのである。

溺れるもの達もまた「現実尊重」を口にはするが、それは大概「私の現実」である。社会は様々な「私の現実」の狎れ合いであり、駆け引きであり、すったもんだである場合が多い。実につまらない現実である。早晩行き詰るに決まっている。

仏道はそれでいいのかと言っている。
もっと、大らかで、なんともない世界で、歩み、泳ぎ、飛んで、溺れ、てっぺんに生きてみないか。


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「二月」

玄関に控へてゐたる二月かな

うすごほり光陰淡くありにけり

立ち話もなんですといふ猫の恋

謂はれなきこの世にひとり悴める

寒泳のやがて真顔となりにけり

なにごともなかりしごとく蒲団干す

恋人と光りを競ひ都鳥

星屑が磯の海鼠となる月日

亡骸に添ひ寝せし夜の冬座敷

節分になくてはならぬ男とか




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