再生への旅

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zoom RSS 今日の涅槃寂静・自未得度先度他

<<   作成日時 : 2014/02/16 20:22   >>

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うすらひや流れを急ぐ水の音 玉宗


釈尊涅槃会に合わせてお寺では逮夜は勿論、正当のお勤めでも「仏垂般涅槃略説教誡経」、略して「仏遺教経」とか、「遺経」とも呼ばれる経典を礼誦する。地方によっては臨終の枕経に読誦されることがある。

釈尊が沙羅双樹の下で涅槃に入られようとされるとき、仏一代の教説を、簡略にまとめられたものであるとされる。原始経典に近いものなのかもしれない。まさに釈尊の遺言である。

そこには、遺される仏弟子たちへの教え、誡めが切々と述べられている。
即ち、持戒、精進等の六波羅密や苦集滅道の四諦の理を明かし、八大人覚とされる「少欲・知足・遠離・精進・不忘念・禅定・智慧・不戯論」の八項目が懇切に説かれている。

欲少なく、足ることを知り、騒がしい所を離れ、つとめはげみ、身心をととのえ、心しずかに、物事の真相を見通し、心を乱す議論をさけるというもの。読誦するたびに冷や汗が出てくる。どれだけ自分はジタバタと騒々しく生きていることだろう。髪を剃りお袈裟を身に纏っていても、内も外も涅槃寂静とは程遠い娑婆世界の煩悩人であることが恥ずかしい。自己採点としては、仏弟子としても、お寺さんとしても見事に落第点。恥ずかしい限り。穴があったら入りたい。出来ることならもう一度出家したいくらいだ。

こんな仏弟子が住職とは檀家さんも気の毒というものである。「聞いて行かざるは導くものの罪科にはあらず」とは言うものの、いつも涅槃の頃となると、「おまえは仏道の先導役としてのお勤めを果たしているのかい?」、というお釈迦様の声なき声が聞こえてくるのである。

先導役もなんだが、一人の仏弟子として決着がついているのかいないのか。「自未得度先度他・おのれ未だ渡らざる先に他を渡す」とは自己に決着がつかないまま人を済度しろと勧めているのではない。「度の世界」とは自他一如であると諭しているのであろう。仏弟子の生きる姿勢、覚悟、誓願の在り様を言っている。自に拘っている眼差しを他へ廻らしてみたとき、そこには拘るべき自もないことに目覚めなければならない。成仏して仏道を歩むのではない。仏道を歩んで成仏するのでもない。成仏と共に仏道を歩むのだと言っているのだ。

釈尊の涅槃から現代にいたるまで面々と伝えられているものがある。末法の世の鈍根劣機の仏弟子として、些かなりともその法恩に応えなければならない。私は仏弟子としてどれほどのことを為し得て娑婆世界を旅立つことができるだろうか?涅槃図の厳粛にして穏やかな世界を目の当たりにするにつけ、そのような思いを新たにするのである。


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「春の川」

堰落つる水の音にも春めきぬ

朽木なる斑雪山より猿の声

明日が見えぬと土手に上れば春の川

傷舐めて治す風の子魚は氷に

母を呼ぶ父の遠吠え春の山

草萌ゆるほかは色なき道歩む

ひとつひとつ置いたるやうに落椿

春吹雪こんなに君が好きなのに

閊へたる春の闇へと投函す

きのふより少し汚れて残る雪








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