再生への旅

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zoom RSS 今日の迷故三界城・家族を越えた世界

<<   作成日時 : 2014/02/04 17:49   >>

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雪しろについて行きたし海みたし 玉宗

我々のいのちの云為とは様々な縁や恩恵の中での生き死にである。
誰ひとりとして自分だけの力で生きているものはいないことを否定する者はいないだろう。自力とは竟に妄想であり、みななにがしかの条件下で、因縁の中で生かされている事実がある。生きている今の話だけではない。この世に生まれ出でたときも、そして死んでゆくときも、人は分に応じ、縁に随った他の力を必要としている。本来、実に頼りない、あなた任せ的な、依存的な、矛盾した存在なのではある。

俺一人で生きているといった傲慢さや、ヒエラルキーの頂点に生きている優越感や不遜さの勘違いも救いようがないが、卑下慢といった一種の盲目さも戴けない。ともに危うい、間違った人生の歩みであることに変わりはなかろう。ものを真っ直ぐ見、感じ、受けとる能力が欠如してはいないか。ありのままの世界を生きる能力とは実に神業なのである。

昨今、家族葬というのが新しい葬儀のパッケージとして葬儀社から提案され出している。
恐らく、遺族の葬儀にお金が掛り過ぎると言う要望へのカスタマイズの商品化なのであろう。(無駄な金を使わないことに異議を唱えるつもりは毛頭ない。毛頭ないが、葬儀などの宗教行事が社会儀礼の側面を持っていることを忘れようとしている社会というのも、なんだか、大丈夫なんだろうかと危惧がないわけでもない。

何かを忘れている、或いは何かを蔑ろにしているのではないかといった観が拭いきれない。もっと云えば、家族といった、人間存在の傲慢さがどこかに見え隠れする。家族は社会の基本であり、人生を学ぶ最初にして最初の「場」ではある。然し、それは私という人間存在の可能性を生きる為の基本であり、全てではない。家族というも狭い世界ではある。情報が偏る危険性がある。欲望の世界でもある。もっと広い世界で人間は生きている存在であることも事実ではなかろうか。というより、広い世界を希求するのが本来の人間力のような気もする。


家族への恩愛、と共に地域や国土や自然や歴史への恩愛といったものがあってもちっともおかしくはないだろう。家族もまた大事な「かたち」であるが、それはもしかしたら家族というかたちを越えた世界を知らしめんがための、神様の唯一の善意かもしれない。家族葬の問題提起をしてこんな結論もなんだか、昨今の情報優先社会は人間のスケール、或いは人間力といったものが段々小さく、薄弱に、そして異質化していくような気がしてならない。杞憂であれば幸いである。



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「立春」

酒臭き鬼ばかりゐてあたたかし

春を呼ぶ鬼来て悪い子はいねが

能登はまだ吹雪のさ中春立ちぬ

春立つといへどもけふの寒さかな

風花のひとたび落ちて舞ひ上がり

開け初めし太郎月なる空の色

産土の杜に睦月の星集ふ

来た道を振り返るさへ春めきぬ

戒律の髪剃りをれば冴返り

天上もまた底なしや薄氷

雪解けて痒きところを弄りぬ



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