再生への旅

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zoom RSS 今日の教外別伝・「威儀即仏法の宗旨」

<<   作成日時 : 2014/02/12 19:43   >>

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春禽の啄みてゆく梢の雪 玉宗


先にUPした「曹洞宗の将来像に寄せて」座談会の中で、宗門人を代表して分科会に名を連ねている池田魯參駒澤大学総長・曹洞宗総合研究センター所長は幾つかの見解を述べて居られる。
その中で、原始仏教の大家でもあった水野弘元先生の講義の中での指摘として「出家の条件」として以下の三つがあったとして紹介している。

「第一、仏教を行ずる専門家でなければならない。
第二、仏教を伝道する使命感を持った人間でなければならない。
第三、後継者を養成する力を持った人間でなければならない。」


又、檀越との関係で云えば瑩山禅師の『洞谷記』の次の置文を挙げて示唆している。

「檀那を敬うこと、仏のごとくすべし。戒、定、慧を修めることは皆、檀那の力によって成就するのである。然れば瑩山、今生の仏法修行は、この檀那の信によって成就したのである。」

「道元禅師が専ら「髪を剃り袈裟をつけることが出家のかたちである」を強調されたのに対して、瑩山禅師は「身の出家と心の出家」と二つ並列して示され、心の出家もあるといわれます。心の出家は、妻を持ち、子どもを持ち、社会生活を営んでいても心は立派な出家であると位置づけられます。この見解はこれから伝道教団として教化宗団として展開していこうとしている宗門の、宗旨の面から示唆に富んだ考え方ではないかと思います。
道元禅師のご文章だけではいかない現実の問題を瑩山禅師が上手にフォローされるわけです。この方向で現代の曹洞宗教団の将来像のベースができあがるのではないかと感じます。」


曹洞宗が「出家教団であるか、ないか」「出家仏教であるか、ないか」といったことが今回のシリーズの中で期せずして浮き彫りにされたのであるが、上記のような碵学の言から察せられるように、曹洞宗は「出家教団」でも「在家教団」でも「出家仏教」でも「在家仏教」でもない。 「仏教教団」であるというのか私の結論である。大乗仏教の歴史的展開の現在にある曹洞宗に於いては拙ブログで取り沙汰された浄土真宗の女史の問題は既に解決済みであるということになる。というか、問題が止揚されて現在にあるというべきか。宗教も又、時代や社会の流れの中で応用されつつ普遍の道を探る生ものなのである。

お釈迦様や道元禅師や各祖師方を尊崇するのに誰もが吝かではないだろう。そうではあるが、その故人の猿真似をしようたって出来る筈もない。猿真似ではなく祖師の歩まんとしたところを今、ここに志す。かたちを敬い、かたちを超える。威儀を敬い威儀を超える、それこそが成仏の法ではないのか。それこそが真の報恩であり、真の伝統であり、生きた法を継ぐことの実際ではないだろうか。それこそが諸行無常の端的であり、諸法実相の面目ではないのか。

そこには出家も在家も、寺族も、老若男女、有縁無縁、貴賎上下の例外はない。悉皆成仏の宗旨とはそのような代物である。そしてまた、そこには当然ながらのように、プロの仏弟子として威儀作法がなければならないだろう。方便現涅槃の一大事がある。プロとは畢竟技術の事だ。成仏の威儀・作法を周知し、身にも心にも覚えあるものをこそ真の出家者と呼んで何の差し支えがあるのだろうか。


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「うすごほり」

母がりの泣き虫小虫うすごほり

うすらひや流れを急ぐ水の音

さざめける光りをのせて春の川

手応へのなかりし春の手を洗ふ

暮れてゆく空に古巣が暮れ残る

何待つとなけれど春を待たされて

ものの芽や腸に滲む雨の音

雪解水大本山を漏れ来る

プライドを失ひにゆく恋の猫

泣きべそをかく子に持たす仔猫かな





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