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zoom RSS 俳句の文学性総括・人間の見える俳句

<<   作成日時 : 2014/03/16 05:58   >>

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春めくや土手を登れば川流れ  玉宗

先日FBで、俳人・島田牙城氏の「牙城俳句塾」で波郷の句「初蝶やわが三十の袖袂」の鑑賞をめぐってひとしきり意見交換させて戴き勉強になった。俳句を鑑賞する側の力量も又試されていることを改めて痛感した次第である。季語一つとっても、嘗て長谷川櫂が指摘していたように、「季語の現場」がなくなったり、変質したりしてきている現実がある。当然のように俳句空間、俳句の宇宙観もまた変わってきているだろうし、未来へ変わっていくのだろう。不易流行とは作り手だけの問題ではなく、鑑賞する側にも横たわっている問題なのだ。島田氏とのやりとりでそのようなことを強く感じている。

ところで、以前拙ブログで石田波郷について何度か記事にしてきたが、あらためて纏めて置きたいこと思う事がある。それは「俳句の文学性」についての総括のようなものである。その文脈で語るならば、俳壇でよく取り沙汰される、石田波郷のあの言葉がある。

「俳句は文学ではない。」

文学性の本質の中には「個」の問題と共に、「つくりごと・創作」というという視点があるだろう。波郷が文学ではないと言った時、それは波郷がこころざしていた「打坐即刻」の俳句世界が日常や自己の実相を虚飾なく詠うものだという矜持があっただろう。その様な展開でとらえるならば、俳句はありもしない事を捻くり出すというような「つくりごと」ではない。が、しかし、現実そのものではない定型詩という作品、「つくりごと」でもあるkとは境涯俳句作者でもある波郷とて否定はできなかったであろう。穿ったものの見方をすれば、人生、生活、そして境涯さえも又創作ではないかとも言える。現実が芸術を真似るのか。芸術が現実を真似るのか。

そして、俳句には「記録」という側面があり、それもまた、文学一般の属性であり俳句だけのものではないと思う。一句は波郷の生きた証であり、偽りなき心模様に違いなかっただろう。人は自己の内に世界の象徴を取り込むことによって救われるといったことがある。作品の主人公・主格はどこまでも自分でなければならない。しかし、それこそが文学性の核となるものではないか。

波郷の残したこの言葉は一筋縄ではいかない。私のような俳句の末席になんとか連なる様なものに、その真意を忖度することは難しい。波郷が「俳句は文学ではない」と吠えたとき、彼には俳句という最短定型詩と心中するという文学者魂が燃えていたのではなかろうか?私達は波郷の逆説に翻弄されているのかもしれない。

<俳句が文学であるかないか、そんなことより小説や純文学と呼ばれるものにもひけをとらない屹立した一句を創ることに命を懸ける覚悟が俺にはあるのか>

寡黙な波郷の生き様、作品にはそんなことを思わせる不退転な気息・響きがある。つまり、彼には俳句を作ることは生きることに他ならなかったということ。俳句が第二芸術であるとかないとかも、波郷には問題ですらなかっただろう。俳句は俳句でありさえすればいいのである。彼には俳句と共に生き、死ぬる不退転の志があった。
それこそが波郷の個性であり、波郷作品の個性、独自性、品格を形成していったのだろう。作品とはそのような個性が時代と交差し、境涯と対決した証であっただろう。そういう意味では彼の作品は石田波郷という人間が見えている。それが偶々境涯俳句であったということだ。

視点を少し変えるならば、俳句に於ける個性とは俳句に対する文学観を抜きにしては語れない。
俳句は文学であり、文学でもない。俳句は個性的でもあり、個性的であってはならない。俳句は無記名であってもいいし、作者の顔や息吹が見えていなければならない。等々、二律背反、何れも真実であり、嘘である。畢竟、作品が全てであると言い切ってしまってもいいような無愛想さ、潔さ、厄介さ、他人行儀さが俳句にはある。
つまり、それもこれも、俳句に関わる私の人間性、つまり文学の核が問われているということなのであろう。それは作品を鑑賞するに於いても同様な困難が待ち受けているということでもある。

「俳人の人間性、文学の核」とは如何にも大仰な、面映ゆい感がないでもない。それもこれも俳諧が大衆文芸とか第二芸術とか呼ばれてきたことによる何がしかマイナー志向の薫習があるのではないか。然し、ここに古来から「俳諧の誠」と云われてきている奥義がある。

「風」主宰であった故・沢木欣一先生の著書『俳句の基本』の中で、俳句実作のポイントとして挙げておられる項目に「風雅の誠」に言及している個所がある。

「前略 ものの実(まこと)というのは物の本性・本意で、対象の本質を意味する。「松のことは松に、竹のことは竹に習え」のように、さかしらな私意(小主観)を離れ、対象の本質を把握せよ、というのである。物を尊重すると同時に芭蕉は「情」を重んじた。私意を離れなければ「誠の情」に至らない。「物の誠」と「情の誠」とをぴったり一致させるのが理想である。客体と主体の完全な合一が目標である。物と情は「誠」をせめることによって合体するといってもよい。これが芭蕉のいう「風雅の誠」であろう。後略」芭蕉の門人・土芳は『三冊子』の中で、「見るにあり、聞くにあり、作者感ずるや句となる所は、即ち俳諧の誠なり」と表現している。

作句現場での生きた感覚に重きを置き、主客一体となった「誠」の表現世界。つまり、俳諧の誠というのは私意や虚偽を排し、観念を先走らせず、対象に見入り、聞き入り、情に入り、こころ通わすこと。そのような感応の世界を十七文字で表現することに命をかける。つまり、感性を尽くすといった「文学性の核・こころざし」の真偽が問われている。 もっといえば、まさにそのようなこころざし・詩精神こそが俳諧の存在意義、真骨頂であるということ。生の、活きた短詩形文学の本質そのもの、つまり俳句の本質であったということ。そこにこそ俳諧に遊ぶ楽しみ、苦しさ、醍醐味がある。句会をしたり、結社に入るということは本来そのような醍醐味を味わうことであったに違いない。その形態は時代と共に些かは変化してきているであろうが、本質的には波郷の時代も現代に於いても代らない感性の世界の話であろう。言葉との関わり方にも個性がある。人との関わり方に個性があるように。自己との関わり方に個性があるように。それはつまり感性の問題ということになるだろう。

個性が衆を離れては無意味なように、個性を離れて人生が無いように、俳諧の誠も作者の個性を離れては成立し得ないだろう。人の数だけ誠の尽くし方があり、ものや人にこころを通わせる程度や様子は人さまざまであろう。俳諧が行きて還るこころ、存問たる所以でもある。そうではあるが、そう言ってしまったところで何を言ったことにもならない。今、私は俳句に於ける文学性、つまり個性の在り処、或いは可能性を考察している。

文は人也、人は文也と云う。文も人も感性である。それは俳句と云う短詩形に於いても免れ難い真実であることは、誰もが口にはしないが、誰もが暗黙のうちに認めていることではなかったか。そういう意味ではどの作品もそれなりに個性的であることには違いない。だとしてみれば、俳句の評価を決定づけるのは必然的に作品から匂い、響く感性の度合いということにならないか。好悪、善し悪しはそれ以後の話である。

俳句は無記名であってよいということは、著作権や個性が必要ないということではなく、 作品という感性の所産が流行性と普遍性を兼ね備えているかどうかを問うているのであろう。 俳句作者の力量もまた、他の文芸と同様に、如何にして言葉の彼岸を明らかにすることが出来るか、感動や詩の正体を提示するとはそういうことだろう。換言すれば、個性的俳人とは、表現に於ける自己の感性のアリバイに妥協しない者のことであるとも言えようか。俳句に於いても、個性の問題は避けて通れない扉であり、出口なのである。 

H氏賞選考委員も務めた「風」同人にして詩人の西垣脩氏は嘗て次のようなことを述べている。

「句をつくるということは、日常性に垂直な精神の軸を立てその場に刻々の自己を確認する操作であって、人間として生きるために択んだことだ。不完全な混乱した日常体験が表現によって完全な意味ある体験として秩序づけられるところに、詩の存在の意義がある、」 (「風」昭和35年9月号)

「日常性に垂直な精神の軸を立てる」とはどういうことか。
私という生き物を観察してみるに、具体的、現実的、散文的歩行をする社会的横軸の生き物でもあるとともに、自己の命や人生の深みに向かう哲学的、実存的、韻文的沈潜、存在そのものへの縦軸的探求にも似た退歩的アプローチといったものがある。生きることの意義、いのちの真相を知りたがっている私がいることを誤魔化せない。そして、そのような本来意義深い日常を何気なく流されるようにやり過ごしている私がいる。
「今が大事、今が大事」と言いながらも、その真相は目先の事象に奔走しているにすぎないのではないかと思う事がある。生きる為の奔走が悪いと言うのではないが、時に空しさが湧くことがある私であるのも事実である。

俳句はあからさまにものの言えない詩形ではあると云われる。あからさまに何が云えないのか?横軸的世界の愚痴や意見や思想や正義や理屈などが云えないということでもあろうか。それは俳句も又沈黙の詩形と言っている事になる。沈黙、つまり言葉を越えた認識、それこそが命の深さと対峙し、起き上がる再生の力となるのであろう。日常における命の垂直軸と水平軸によって構築される命の世界。詩はそのような懐の深い沈黙の世界への歩みであり、真に心の豊かさへ通じる道の一つではなかろうか。言葉を越えた彼岸に渡すことこそが文芸とか表現の真骨頂であり意義なのであろう。現代俳句は沈黙に耐えているだろうか?沈黙を表現しているだろうか?現代社会の喧騒は俳句の世界にも光りを差し、影を落としているに違いない。波郷が生きていたらどんな俳句を作っているだろうかと愚かなことを思ったりする。

私にとって俳句を作り続けることは、確かに日常を生きている私の縦軸と横軸の交差の軌跡である。そしてそのような「表現するという作業」が生きる力になっている事実がある。金にはならないが、欲を越えたところで私を支えている事実がある。よしなしごとに身を入れて救われている魂の現実がある。わが俳句の地平がある。わが表現の地平がある。社会がある。私の命の地平がある。夢がある。うつつがある。おそらく、お坊さんであり人間である私の俳句が個性を云々出来るとしたら、その辺のややこしい事情に通じているかいないか、といったことではなかろうかと考えている次第。いずれにしても「表現力」という謂わば、「自己再生力」が試されている。

私は俳句に多くのことを期待してはいないが、出来ることなら私という人間の見える俳句を創り出したいと思ってはいる。それは市堀でもあり、市堀を越えた世界の様相を呈していても一向に構わない代物である。そして、感応しあえる作品、人に出会いたいとも。それには現実に胡坐を掻かぬまっさらな眼差しと、ちょっとだけでも背伸びしてみる冒険心が必要なのであろうと思っている。


(この記事は以前三回に分けて考察したものを今回、加筆、或いは訂正、削除を施し一つに纏めたものです。市堀)

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「春の水」

ものの芽や忽ち風の訪へる

獺に化かされ春野さ迷へる

ツーアウト満塁春の夕焼けの

うれしくてならぬと春の水流れ

せせらぎの光りの方へ猫柳

目覚めたる山に抱かれし雉の声

土手を吹く風に抗ふ犬ふぐり

托鉢の僧がぞろぞろ春の山

ついてくるものは影のみ春憂ひ

太陽はだれのものでもない土筆

潮の香の風吹きわたる春田かな

春陰に浮かび出でたる墓石かな







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