再生への旅

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zoom RSS 石の上にも三年目の花

<<   作成日時 : 2014/03/27 20:24   >>

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鳥雲に仏弟子山に入りにけり 玉宗

弟子が僧堂へ安居して昨日で三年目に入った。

中学生の頃得度はしたものの、生涯仏の道を歩むかどうか、親でもある私は本人の意思に任せていた。大学を卒業してどうするつもりなのかと様子を見ていたのだが、本人から修行に行くと言い出したのには少なからず驚いたものである。嬉しさ六分、心配四分といったところだった。

行くと決まったらそれなりの準備もしなければならない。お寺の雰囲気というものは生まれたときから感じているだろうが、見るとやるとでは勝手が違う。衣の着方、袈裟の掛け方、お経の読み方、歩き方、坐禅の仕方、等々を上山前に仕込んだことである。朝四時に一緒に起きて、一緒に坐禅をし、お経を誦み、作務をし、ご飯を戴いた。私にとっても初めての経験で戸惑いもあったが、楽しくも懐かしい日々だった。

僧堂は本来何も知らない小僧が行くところではないといった考え方もあるのだ。謂わば、基本ができた者が進むべきエリート集団でもある。現今「お坊さん養成所」みたいなことになっているが、本来、道を窮めることを志した者だけが入ることを許されるところでもあろう。当初から弟子にそのようなことを望んだ私でもないが、僧堂へ上がる前に基本的な作法、進退は身につけておくのはあたり前だし、ある意味、僧堂への礼儀でもある。

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早いもので、そんな弟子も今日から三年目の安居修行となる。
師匠の私が云うのもなんだが、今のところ、私の仏弟子駆け出しの頃よりは余程まともな修行をしている。法戦式も嗣法も瑞世も滞りなく済ますことができた。曲がってはぶつかり、出たり入ったり、紆余曲折の修行を繰り返してきた師匠には、弟子の順調にしてまとも過ぎる修行を危ぶむ思いすらある。夫人には返す返すも親ばか過ぎないようにと釘を刺されている。かまうな、と云うのである。

かまい過ぎようとは勿論思ってはいないが、思い遣ることは私の勝手である。
例えば、初心を忘れずに、とは言うは易いが実践するのは難しいにが人間の実際であろう。僧堂に於いても確かに古参になるにしたがって見えて来るものがある。身につくものがあある。見えなければならない。身に付かなければならない。然し、古参になるにしたがって見えなくなるものもある。失うものすらある。年季を積みクオリテイーを上げる醍醐味は、自己を偶像化する愚かさに陥る危険性と裏腹なのである。

この先、安居を続けようが送行しようが、弟子の判断に任せるつもりではあるが、どのように生きようとも、自己を知り、自己を学ぶ謙虚な姿勢、柔軟心、逞しさだけは崩さないようにしてほしいと願っている。自分からは逃げられないことを知らなければならない。逃げられない自己と真向かい、格闘し、乗り越え、受け入れる。それこそが人生の意義なのだと目覚めること。一人の仏弟子として、一人の人間として自立することが、師匠にも、親にも、真の孝行なのである。親であり、師匠である私もまたそのような自立した存在の典型として彼と対していかなければならない。

そうであればこそ、石の上にも人生の花が咲くのである。年数の問題ではない。いつも、今をどう生き切るかが試されている。


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「霞」

かすみたる沖にうごめく潮かな

ふり向かぬ椿の顔をのぞき込む

梅を見に妻がほとぼり冷むるまで

手すさびに摘みし蓬の香をまとふ

潮満ちてゆらめく森の石蓴かな

嘘つけずラッパ水仙鳴りだしぬ

沖霞み風のまぐはふ音すなり

ふるさとの水音ゆたかに初燕

かすみたる山の方より時の鐘

木の芽吹く空に傷みのありにけり






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